怪物

怪物,Monster,Kaibutsu

主演:安藤樱,永山瑛太,黑川想矢,柊木阳太,角田晃广,黑田大辅,森冈龙,北浦爱,片山萌美,野吕佳代,高畑充希,中村狮童,田中裕子

类型:电影地区:日本语言:日语年份:2023

《怪物》剧照

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《怪物》剧情介绍

怪物电影免费高清在线观看全集。
一栋普普通通的公寓,住着失去了丈夫的女子早织(安藤樱 饰)及其就读小学的儿子麦野湊(黑川想矢 饰)。凑寡言少语,少年老成,似乎藏着无限的心事无法道出。而近一段时间凑种种反常举动,让早织心有不安。从儿子口中,她得知凑遭到了保利老师(永山瑛太 饰)的霸凌,于是鼓足勇气前往学校讨要说法。校方的态度暧昧应付,甚至对她单亲母亲的身份有着偏颇的认知。当双方变得愈加胶着之际,早织似乎慢慢发现学校里的儿子有着她所不熟知的一面。在这一过程中,另一个男孩星川依里(柊木阳太 饰)也被卷入漩涡中心…… 本片荣获第76节戛纳电影节主竞赛单元最佳编剧奖。热播电视剧最新电影双重爱情我们都不完美波特斯维尔初恋这首情歌残虐你,娱乐我青春期撞上更年期魔鬼上司告别前的30分钟秦岭诡事之守护者犬勇者物语黑钱枪神斯托拉塔斯孤独的美食家第五季神之乡扫黑行动之黄金从零到一的爱情将界Ⅱ烽火双城兵临城下·虎贲三大队最美丽的一天夜袭寡妇村天堂套房蝙蝠侠大战罗宾恋爱吧!千户大人索命厨师故乡,别来无恙4个人各自有着自己的秘密爱在何方星之人我讨厌圣诞节第一季

《怪物》长篇影评

 1 ) 观后感|与是枝裕和导演连线,为少年们的奔跑流泪

*在后面更新了二刷和是枝坂元映后的内容*#是枝裕和导演映后谈很喜欢这部电影的叙事方式。

分三个篇章,采用三方视角,逐渐厘清同一条故事线。

然后你会发现,从外界视角看到的混乱恐惧焦虑和各种各样的“怪物”,实际都是纯粹的情感在机缘巧合下造成的多重误会。

悬疑性也非常足。

“怪物”究竟指的是谁呢?

麦野对母亲说自己被老师骂为怪物、母亲是为保护儿子大闹学校的怪物、保利是被说成体罚学生的怪物老师、星川被父亲认为是有病的怪物。

明明大家都是纯粹善良的人,做着情理之中的事,却会因群体、舆论、谎言、偏见、社会被视作怪物,而这样的事可能发生在任何人身上。

和是枝导演连线发现他好呆萌,每个问题都要望着天思考,一脸迷惑哈哈。

(开始的时候不知道为什么他能听到我们的声音我们听不到他那边,调试了很久zoom,结果最后还是用打电话的方式把声音播出来)问他对于“怪物”想要传递什么信息,他说这问题好难啊,我也不知道,每个人会有不同的关注点,所以看自己想看到什么。

还有一个有趣的问题是电影得了酷儿金棕榈奖,这个奖一得,大家瞬间就预判了是有LGBT元素,但前期宣传里从未提过有这样的情节。

他说得这个奖的时候他都觉得很纳闷,因为他不觉得里面的内容应该定义为LGBT,只是少年成长过程中懵懂的感情。

但是后来评委跟他说,这只是说明这部电影在不同的群体中都值得看,他就接受了。

是枝的残酷温馨日常流与坂元的隐隐作痛青春物语结合在一起,再伴着坂本龙一悠扬的琴声,情绪缓缓流动起来。

“虽然我也不太明白,我有了一个喜欢的人,因为不能对别人说,所以说了谎。

因为如果暴露的话,就不能得到幸福了。

”“那么,对谁都不能说的话,就把它吹出来吧。

”为少年们的奔跑而流泪吧。

祝福那些不能喜欢自己、不能被别人喜欢的人们,“接受真实的自己”就很好了。

—————二刷分割线—————#亚洲电影巡回放映-第17届亚洲电影大奖-精选电影《怪物》是枝裕和、坂元裕二映后座谈完成了怪物二刷。

第二次看因为已经知道剧情,会更加注意前两篇章中的细节,感觉更加流畅了。

第一次同时见到是枝和坂元!

是枝的片我看了7部,坂元的看了11部,感觉坂元反而是那个更难见到的人。

而且这次聊得足够深入,翻译和主持都很在线。

两人谈了很多创作的过程。

比如是坂元先把剧本想好的,然后找了制作人,自己心里想找是枝来拍,但是没说出来。

结果制作人们找到了是枝,是枝一听是坂元的剧本就接了。

就是,互相吹彩虹屁。

剧本也是有改动过的地方,比如是枝希望更快进入两个男孩的部分,所以把前面一些内容给删减了。

坂元担心自己写的台词两个小孩不能很好地理解,结果发现拍的时候都理解得非常好。

坂元创作的时候,有时会先给人物写生平设定,但是在这一部里没有写。

连喜欢的瑛太也没有给他写。

是枝说坂元跟瑛太配合得太好了,让他很嫉妒,为什么坂元说的东西瑛太一下子就能理解。

是枝讲到坂本龙一的音乐,一开始是他自己想找教授做配乐,因为他拍到火车头那个景的时候看到了水,就很想找他。

他就自己把demo配上了音乐寄给了教授。

教授当时身体已经不太好了,说很难做全新的创作,如果要用的话,就像我们看到的,用了Aqua这首旧曲。

剧情上也有提到有些问题好像没有明确的解答,比如是不是真的是校长撞死了她孙女。

他们说这就是没有明确答案的,因为觉得这个并不是非常重要。

重要的是,开始时大家对校长的印象应该是一个坏的人,但是看到最后,她和麦野一起吹奏的时候,她在你心里又是一个什么样的形象呢?

两个人的画风还挺不一样的,是枝是举手投足都可可爱爱卖萌嘟嘴,坂元是看起来没表情挺严肃其实说话很有梗。

忙着拍照我居然能记住那么多挺不错了。

 2 ) 【是枝裕和x坂元裕二】戛纳凯旋记者会见全文(中日双语)

https://gaga.ne.jp/kaibutsu-movie/本文翻译为人工智能翻译(ChatGPT 3.5),如有错误请谅解。

MC MC戻ってきたばかりの監督からご挨拶をお願いいたします。

请刚回来的导演向大家问好。

是枝監督(以下、監督) 是枝导演(以下简称导演)2時間くらい前に羽田についたばかりなんですけれども、この作品にとって本当に素晴らしい評価をいただいたなと思っております。

無事にこの脚本賞の盾を、僕が運んだわけではありませんが、坂元さんにお渡しできすることができて、ちょっとホッとしています。

今日は有難うございます。

遅い時間にすみません。

我大约两个小时前刚到羽田机场,对于这部作品获得如此高度评价,我真的感到非常开心。

虽然不是我亲自运送的,但我很庆幸能够将这个剧本奖的奖杯交给坂元先生。

非常感谢今天的机会,时间这么晚了我表示抱歉。

MC MC一足先にご帰国されていましたが、この度見事受賞されました坂元裕二さんよりご挨拶をお願いします。

虽然您已经先一步回国了,但是我想请坂元裕二先生代表我们向您致以最诚挚的问候和祝贺。

坂元裕二(以下、坂元)こんばんは、脚本家の坂元裕二です。

本日はお越し下さり有難うございます。

晚上好,我是剧本家坂元裕二。

非常感谢您今天的光临 こういう場に出るのは初めてですので、とても緊張していますが、どうぞ宜しくお願い致します。

这是我第一次参加这样的场合,所以我非常紧张,但还请多多关照。

<質疑応答> <回答提问>質問者 提问者今回はおめでとうございます。

受賞されてトロフィーを今受け取られたばかりですが、 恭喜您这次的获奖!

您刚刚领取了奖杯,真是太棒了!

そのトロフィーの重み、実感みたいなものはいかがですか?

那个奖杯的重量,你有没有真切地感受到它的存在?

坂元実感は正直あまりありません。

まだ受賞を初めて聞いた時に寝ていたものですから、第一報を聞いた瞬間、まず初めにまだ夢を見ているのかなと思いました。

その後もまだ続いているようで、今も夢の中にいるような、そんな思いと、ただこの重み自体がやはりこの作品の責任感だと感じますので、そこは私自身、手にも背中にも乗っかったとても大きな責任だと感じております。

实感实在不多。

当我第一次听到获奖的消息时还在睡觉,一开始我甚至以为自己还在做梦。

之后,这个感觉仍在持续,现在仍然感觉自己像是在梦中,同时也感受到这份荣誉所带来的责任感。

对我个人来说,这是一个非常重大的责任,无论是在手上还是在背上都感受到了。

質問者 提问者今回世界的な評価を受けたということで、今後映画の脚本に対する向き合い方ですとか、考え方のようなものに変化は出てきそうな予感というものは自分の中にありますでしょうか?

由于这次获得了全球范围的认可,您是否感到自己对电影剧本的处理方式以及思考方式等方面可能会发生变化的预感呢?

坂元最近、映画の脚本を書くようになりまして、ほぼ2本目のようなものなんですが、まだやはり監督のお力を借りながら、プロデューサーのお力を借りながら、ゆっくりと進んでいるところですから、やはり今回含めて周りの人のお力によるものだと考えております。

最近开始写电影剧本,虽然算是第二部作品了,但还是需要导演和制片人的帮助,所以进展比较慢,我认为这次以及之前的作品都是得益于周围人的支持。

質問者 提问者先ほど一報を聞いた時に寝ていらっしゃったということですが、どなたからどのような手段、どういう状況で一報が入ったか教えてください。

听说您在刚才接到通报时正在休息,能否告诉我是谁以及通过什么方式,在什么情况下向您通报的呢?

坂元朝方というか、深夜4時頃だったものですから、寝ておりました。

着信はあったようなのですが、気付かずにそのまま寝ていまして、そのうちに、またそのニュースをご覧になった方からショートメールをいただいて、それで初めて音が鳴ったんですね。

その音で気付いて、見たところ、プロデューサーや監督から、受賞しましたというお話を聞きまして、何と言いますか私はご覧のようにあまり感情の起伏がないものですから、「うれしい」とか「やったー」という気持ちよりは、何か「ズシン」という思いが訪れて、水を一杯飲みました。

それが最初の行動でしたね。

与其说是什么情况嘛,其实大概是凌晨4点左右,我正在睡觉。

虽然有来电,但我没有注意到,继续睡了下去。

后来,我收到了一条短信,是从另一个看到那则新闻的人那里发来的。

这才是我第一次听到声音。

我被那声音吵醒后,看到是制片人和导演给我发来的消息,说我获奖了。

我要说,我并不像你们看到的那样情绪起伏很大,不会像“开心”或者“耶!

”那样的心情,而是有一种“咚”的感觉涌上心头,我喝了一杯水。

这是我最开始的反应。

質問者 提问者 以前、完成披露試写会の舞台挨拶の際に、この脚本は子供の頃の記憶・経験を思い出しながら書いたとおっしゃっていました。

また、受賞の後に是枝監督が紹介されたコメントの中では、たった一人の孤独な人のために書いたとおっしゃっていました。

差し支えない範囲で、この作品の元になったという経験がどのようなものだったのか、また、たった一人の孤独な人という、その人に伝えたい言葉が今ありましたら教えてください。

在之前的披露试写会的舞台致辞中,您曾提到这个剧本是在回忆童年的记忆和经历的同时写成的。

而在获奖后,导演是枝先生在介绍中说,这是为了一个孤独的人而写的。

如果不介意的话,请告诉我们一下,这个作品的灵感来源是什么样的经历,以及如果有一句话想要传达给那个孤独的人,您现在会说什么呢?

坂元監督にお送りした、「たった一人の~」というコメントに関しては、慌てて書いたものでしたから、文章が下手だったんですが、きっとどこかにいるであろう孤独に過ごしている誰か、それは特別な誰かを指しているわけではなく、また多くの沢山の人に届けるという気持ちではなく、誰かこの映画を受け止めてくれる、そんな人がいると信じて、その人のことを頭の中で思い描きながら常に書いていました。

关于我给监督的那条“只有一个人”的评论,我匆忙写下的,所以文笔不太好,但我相信总会有那么一个人,他们或许在某个地方独自度过,这并不特指某个特殊的人,也不是为了让更多人看到,而是相信会有人接纳这部电影,所以我一直在脑海中想象着那个人,写下这些话 子供の頃に関しては、その時に話していた通りで、仲良かった友達のことや、何人かの僕が小学校時代から中学にかけて出会った友人や出来事、そんなことを思い返しながら書きました。

关于小时候,就像当时所说的那样,我写下了与我关系亲密的朋友们的事情,以及我在小学到中学期间遇到的一些朋友和事件,回想起了这些事情。

質問者 提问者感情の起伏があまりないと今おっしゃっていましたが、賞というのはもらうと嬉しいものでしょうか?

您刚才提到情感起伏不大,但是获得奖励会让人感到开心吗?

坂元周りの方から「おめでとう」と言われて初めてうれしくなります。

当别人从周围赞美你并说“恭喜”时,你才会感到开心 沢山の方から、まずは監督から、プロデューサーから「おめでとう」と、勿論チームの一人ですので、みんなでもらった「脚本賞」だと思っていますから、その時点で私が身内からお祝いされるのも不思議なことではありますが、沢山の人からその後も「おめでとう」という言葉をいただきました。

それが、やはりうれしかったです。

一番うれしかったのは、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督から「脚本賞受賞おめでとうございます」というメッセージが届きまして、タクシーの中にいたんですが、涙が出ました。

うれしかったです。

从很多人那里,首先是导演,制片人,他们都对我说了"恭喜",当然作为团队的一员,我也认为这是大家一起得到的"剧本奖",所以在那个时刻,我被亲朋好友祝贺也是一件奇妙的事情,之后还收到了很多人的"恭喜"。

这些话,确实让我很开心。

最让我开心的是,导演约翰·卡梅隆·米切尔发来了一条消息,祝贺我获得"剧本奖",当时我正在出租车里,眼泪流了出来。

真的很开心。

質問者 提问者是枝監督はカンヌで沢山もらっていらっしゃると思いますが、賞をもらうという気持ちはどのようなものでしょうか?

我认为是枝导演在戛纳电影节上收获了很多奖项,那获奖的心情是怎样的呢?

監督 监督勿論、うれしいです。

華やかな場所が好きなわけでは勿論なく、僕も周りから感情があまり見えないと言われがちなんですが、内側では色々感情の起伏があるタイプなんですが(笑)、特に自分が褒められると、本当かな?

と疑問が湧きますけれども、自分の映画に関わってくれた役者さんとかスタッフが褒められるのは、うれしいですね。

今回は会場にいて、何かとても幸せな気持ちになりました。

无论如何,我很高兴。

并不是说我喜欢热闹的地方,而且我也常常被人说我看不出太多情感,但其实我内心起伏多变(笑),特别是当别人夸奖我时,我会怀疑这是真的吗?

但是,当别人夸奖参与我的电影的演员或工作人员时,我感到很高兴。

这次在场的时候,我感到非常幸福質問者 提问者坂元さんに質問です。

受賞しそうだな、するんじゃないかなという予感はなかったんでしょうか?

我有一个问题要问坂元先生。

您没有预感到自己可能会获奖吗?

坂元まったく考えてもいませんでした。

カンヌに呼んでいただけたこと自体が私にとって何より嬉しいことでしたし、それ以上のことは考えていませんでした。

勿論私も『怪物』のチームの一人として、作品を観てとても好きになれた作品でしたので、評価を受けると嬉しいなという気持ちでした。

本音で、自分のことは全く考えておりませんでした。

我完全没有考虑过。

被邀请参加戛纳电影节对我来说已经是最开心的事情了,我没有想过更多的事情。

当然,作为《怪物》团队的一员,我非常喜欢这部作品,所以能得到评价让我感到高兴。

说实话,我完全没有考虑过自己質問者 提问者脚本のどんなところを評価されたと考えていますか?

您认为脚本的哪些方面受到了评价?

坂元勿論、審査される方が脚本を読んでくださっているわけではないので、出来上がった作品から脚本を評価していただいたと思うのですが、それは作品のすばらしさ、そして脚本に関しては、どうでしょう、自分ではなかなか評価しづらいんですが、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督は「人の命を救う映画になっている」とおっしゃってくださったので、もしそれが誰かの心にそうあるなら、こんなに嬉しいことはないなと思っています。

无论如何,我认为并不是有人审查了剧本后才评价了成品,而是从成品中评价了剧本的优秀之处。

关于作品的精彩和剧本本身,我自己很难评价,但导演约翰·卡梅隆·米切尔先生说这是一部能够拯救人命的电影,如果这样的评价能触动某人的心灵,我觉得再开心不过了質問者 提问者子供と親と教師という3つの視点が巧みに表現されていると思ったんですが、その辺はどういった意識で書かれたのかを教えてください。

我认为这本书巧妙地表达了孩子、父母和教师这三个视角,您能告诉我它是以什么样的意识来写的吗?

坂元3つの段階をふむのは、私が以前経験したことなのですが、車を運転しておりまして、赤信号で待っていました。

その時前にトラックが停まっていて、青になったんですが、そのトラックがなかなか動きださなくて、しばらく待っても動かないものですから、私は前の車がよそ見しているのかなと思って「プップッ」とクラクションを鳴らしたんですね。

そのトラックはそれでも動かなかった。

经历过三个阶段,这是我以前的经历,当时我正在开车,等待红灯。

那时前面有一辆卡车停在那里,绿灯亮了,但是那辆卡车一直没有动,我等了一会儿也没有动,所以我以为前面的车在看其他东西,就按了一下喇叭。

但是那辆卡车还是没有动 どうしたんだろうと思っていると、ようやく動き出した後に、横断歩道に車いすの方がいらしたんです。

そのトラックは車いすの方が渡り切るのを待っていたんですが、トラックの後ろにいた私にはそれが見えなかったんですね。

それ以来、自分がクラクションを鳴らしてしまったことを後悔し続けておりまして、このように世の中には普段生活していて見えないことがあり、私たち、私たちと言っていいのか、まず私自身、自分が被害者だと思うことにはとても敏感ですが、自分が加害者だと気付くことはとても難しい。

それをどうすれば加害者が、被害者に対してしていること、気付くこと、それができるだろうか、そのことを10年余り常に考え続けてきて、その一つの描き方として、この方法、この描き方を選びました。

我一直在想发生了什么事,终于开始动起来后,横过马路的是一个坐在轮椅上的人。

那辆卡车等着轮椅上的人过完马路,但是我站在卡车后面看不见。

从那以后,我一直后悔按响了喇叭,因为在日常生活中有些事情我们看不见,我们,或者说首先是我自己,对自己是受害者的事情非常敏感,但是很难意识到自己是加害者。

我一直思考着如何让加害者意识到他们对受害者所做的事情,如何让他们意识到这一点,我已经考虑了十多年了,选择了这种方式来描述这个问题質問者 提问者是枝監督に。

坂元さんの脚本の優れているところ、どのように評価されているのかを教えてください。

对于是枝导演来说,能否告诉我坂元先生的剧本有哪些优点,以及它们受到了怎样的评价?

監督 监督ぼく個人が、でいいですか?

说我个人的观点可以吗?

質問者 提问者はい。

好的監督 监督受賞後のカンヌの囲みで、坂元さんの脚本のどこが評価されたと思いますか?

という記者の質問が出て、 在戛纳电影节获奖后的采访中,有记者问到坂元先生的剧本被评价的哪些方面?

審査員の人たちと話す機会があれば聞いてみたいなと思っていたのですが、ちょっと今回はそういう集まりがなくて、いきなり花火があがってお祭りになっちゃったものですから、ちゃんと聞けていないんですよ。

それがちょっと残念なんですけれども、僕自身は最初にプロットをいただいた時から、一体何が起きているのかわからない、わからないのに読むのが止められない。

どこまでいってもわからない。

映画が半分過ぎても多分まだわからないということが、あぁこんな書き方があるんだなと、自分の中にはない物語の語り方でしたし、読み進めていくうちに、読んでいた自分が作品によって批評されていく、自分がその今の坂元さんのお話でいうと、クラクションを鳴らす側に否応なくなってしまうという、そのある種の居心地の悪さというんですかね、良い意味で。

それが最後まで持続するということが、とても面白かったです。

エンターテインメントとしても本当に面白かったんですね。

それが僕は一番チャレンジしがいのある脚本だなと思ったところの一つです。

沢山ありますけれども、それが一つですね。

如果有机会和评审们交谈,我本来想问问他们的想法,但这次没有这样的机会,突然间烟花绽放,就变成了一个庆典,所以没能好好询问。

这有点遗憾,但从一开始收到剧本时,我就不知道到底发生了什么,不知道却停不下来地读下去。

无论读到哪里,都不知道。

即使电影已经过了一半,可能还是不知道,这种叙述方式在我内心中是全新的,随着阅读的进行,我发现自己被作品所批评,我不由自主地成为了现在坂元先生故事中按喇叭的那一方,这种不舒服的感觉,以一种好的方式存在着。

这种感觉一直持续到最后,非常有趣。

作为娱乐作品,真的非常有趣。

这是我认为最具挑战性的剧本之一。

还有很多,但这是其中之一質問者 提问者坂元さんにお伺いします。

先ほど映画の脚本は2本目とおっしゃっていましたが、そもそものお話として映画の仕事をやりたいということが、脚本を書かれるルートにあったという風に伺っております。

例えば、フジテレビヤングシナリオ大賞に応募する前にディレクターズカンパニーの方に長い脚本を出して、それと同時に短くしたものをフジテレビに送ったらフジテレビの方で通ってしまった。

でも、どうしても映画をやりたい、ということで、ご自身で監督作をやったこともある。

そんな過去がありながら、近年だとドラマというものは結論が出ていないから面白い、映画は2時間で結論が出るから面白くないというような発言をされていたのもちょっと聞いたことがあります。

もともとやりたかった映画の世界で、脚本という道で賞をとったということの喜びについて、どう思われていますか?

我想请教坂元先生。

刚才您提到您已经写了第二部电影剧本,但我想了解一下,最初您是怎么进入电影行业并开始写剧本的。

例如,在参加富士电视台青年编剧大奖之前,您曾向导演公司提交了一部长篇剧本,并同时向富士电视台提交了一份缩短版,结果富士电视台通过了。

但是,由于您非常想做电影,所以也曾自己执导过作品。

我听说您曾经说过,近年来,电视剧之所以有趣,是因为没有结论,而电影只需要两个小时就能有结论,所以不那么有趣。

作为一名在电影界本来就想做电影的人,您对通过剧本这条道路获得奖项的喜悦有何感想?

坂元映画がつまらないと思ったことは全くありませんし、一人の映画ファンとして映画が大好きです。

自分が高校生の頃に多くのこの世界にいる人達がそうであるように、映画をたくさん浴びるように見て、この映画の世界で映画をつくる仕事をしてみたい、と10代から20代前半のときはずっと思っていました。

我从来没有觉得电影无聊,作为一个电影迷,我非常喜欢电影。

就像许多人在我还是高中生的时候一样,我一直希望能够像他们一样沉浸在电影的世界中,从事电影制作的工作。

这个想法一直伴随着我从十几岁到二十几岁的年纪 1本映画をつくったのですが、その時に全く自分が監督という仕事に向いていないということが分かりまして、それ以来辞めようと思って25年くらいですかね、もう少しで30年くらい経ちます。

30年も経つともしかしたら今ならできるんじゃないかと思ったりはしていたんですが、今回の是枝さんの仕事をみて、やっぱり自分にはこれはできない、無理だとはっきり分かりましたので、本当に映画監督ってすごい仕事だなと思いました。

すみません、質問の答えになってましたか?

我制作了这部电影,当时意识到自己完全不适合导演这个工作,从那时起我就考虑辞职了,大概已经有25年了,差不多快30年了。

过了30年,我有时候也会想,也许现在我能做到了吧,但是看了是枝先生的工作之后,我明确地意识到这对我来说是不可能的,真的是太难了,我觉得电影导演真是一份了不起的工作。

对不起,我的回答是否符合您的问题?

質問者 提问者映画監督が凄いということは分かりましたけれども、脚本でカンヌの頂点に立った、もともとやりたかった映画で賞を取れたということの達成感、そういうものはあるんじゃないですか?

我明白电影导演很厉害,但是在剧本上能够在戛纳电影节上获奖,实现了自己一直想做的电影,难道没有一种成就感吗?

坂元そうですね。

私30年前にカンヌ映画祭に遊びに、観光で行ったことがありまして。

それは仕事でもなんでもなく、ユーロスペースという会社の堀越謙三さんや、亡くなられた吉武美知子さんにパスを取っていただきまして、吉武さんに案内されながらカンヌで映画をたくさん観ました。

その時に、いつかここで自分の作品を上映できたらどんなに幸せだろうか、そんなことを毎晩考えていました。

遠巻きにレッドカーペットを見ながら。

それから30年経って、賞を獲ったということも勿論嬉しかったのですが、上映できたこと、それが30年来の願いで、願いというか忘れていた願いが蘇ってきて、ああここにあったんだという気持ちになりました。

嗯,是的。

我30年前去过戛纳电影节玩,当时是作为旅游目的去的。

那并不是工作,而是得到了Eurospace公司的堀越謙三先生和已故的吉武美知子女士的通行证,她带着我在戛纳观看了很多电影。

那时候,我每天晚上都在想,如果有一天我能在这里展示自己的作品,那该有多幸福啊。

就这样远远地看着红地毯。

然后30年过去了,当然获得奖项也让我非常高兴,但更让我高兴的是能够展示我的作品,这是我30年来的愿望,或者说是我已经忘记的愿望重新浮现了,感觉啊,啊原来它一直在这里質問者 提问者ドラマの世界でもなかなか難しい時期もあったかと思うんですよね。

テレビから離れた時期もあった。

ゲームの脚本を書かれたこともあった。

テレビドラマに向き合うってこと、脚本家っていう職業として向き合うことが難しい時期もあったと、著書の中でも書かれていますけれども、今ご自身の脚本家の人生を振り返ってみて、やっぱり幸せの頂点というところなんでしょうか?

我觉得在电视剧的世界里,也有过一些困难的时期吧。

也有过离开电视的时候。

还曾经写过游戏剧本。

在面对电视剧这个职业作为编剧时,也有过困难的时期,这也在您的著作中有所提及。

但是现在回顾您自己作为编剧的人生,您认为最高点就是幸福吗?

坂元全く頂点とは思っておりません。

なかなか日々とにかく、(記者の)皆さんも同じようにパソコンの白い紙に向かって書かれていらっしゃるかと思いますが、私も日々ただただ締め切りに追われ、文字を埋めていくということをコツコツ毎日1日中やるしか、それでしか、ものが出来上がらないので、そこになかなか達成感というものが生まれるということはなく、ただただ文字を書き貫いていく、これが自分の人生だと、振り返れば思っていますので、そこに達成感というものが、この仕事をしているとなかなかそう簡単に手に入るものじゃないのではないかなと。

ただ、お客様から観てました、時に救われましたという言葉をいただけると、ちょっとそのコツコツやっていた日々を思うと、無駄ではなかったなとそんなことを思うぐらいです。

我并不认为自己是顶尖的。

每天都在忙碌,我想记者们也是一样,坐在电脑前面面对着白纸写作。

我也是每天被截稿压迫着,只能一天到晚埋头填字,只有这样才能完成工作。

所以,我并没有什么成就感,只是一直写字,这就是我的人生。

回过头来看,我觉得在这个工作中很难获得成就感。

但是,当客户告诉我他们从我的作品中得到了救赎时,我会稍微想一下那些辛勤努力的日子并不是徒劳无功質問者 提问者子供のセクシャルアイデンティティについて、かなり踏み込んだ内容の脚本と作品になっていることが、クィア・パルム賞を受賞されたことになっていると思うんですが、このテーマについては、お二人はかなり最初の段階から形を変えないまま、この企画をもんで映画化されたということになるのでしょうか?

それとも色々話し合いで脚本をつくったというお話をカンヌの記者会見でされていましたが、そこのテーマについては紆余曲折があって最終的な形になったんでしょうか。

我认为这部作品在探讨儿童的性别认同方面非常深入,因此获得了奎尔·帕姆奖。

关于这个主题,您们两位是从最初的阶段开始就没有改变形式,直接将这个计划拍成电影呢?

还是在戛纳的记者招待会上提到的,您们通过讨论最终完成了剧本,经历了一些曲折才得到最终的形式呢?

坂元まず私からお話しますと、どんなお話でもどんなテーマでもそうなんですが、まずは取材、勉強、自分自身のこれまでの経験、それを踏まえながらとにかく自分の中にある“まずこうだろう”を捨てて、まず知ること、自分自身を疑うこと、それを考えながら取材・勉強を続けてきました。

ある段階で監督含め監修の方に入っていただき、多くの指摘をいただきながら修正していきました。

その具体的な過程に関しては監督の方が詳しいかと思うんですが、ただ自分たちが分かった気にならない、それはいつもそうなんですが、自分たちは何も知らないんだということを、常にふまえながら勉強していったという感じですね。

そして、脚本に修正をいれ、大きく変えていきました。

首先,让我来说一下,不管是什么样的故事,什么样的主题,首先要进行采访,学习,结合自己以往的经验,放下自己内心的“首先应该这样”的想法,先去了解事实,怀疑自己,同时继续进行采访和学习。

在某个阶段,导演和监修人员参与进来,给予了许多指导意见,我们根据这些意见进行了修改。

关于具体的过程,我认为导演会更详细,但我们始终保持着不自以为是的态度,我们一直在学习的过程中意识到自己什么都不知道。

然后,我们对剧本进行了修正,并进行了大幅度的改变。

監督 监督そうですね。

プロットをいただいた段階で、これはちゃんと勉強しないとまずいなと思って。

プロデューサーと相談しながら、協力していただける団体の方たちに連絡を取って、最終的には、LGBTQの子供たちの支援をしている団体の方に、本を読んでいただいたり、演出上どういう風な注意点があるかということをお伺いしながら、描写については現場にインティマシー・コーディネーターの方にも入っていただいて撮影をするという様な形をとりました。

嗯,是的。

在收到剧情之后,我意识到如果不好好学习这个问题就不妙了。

我与制片人商量后,联系了一些愿意合作的团体,最终请了支持LGBTQ儿童的组织的人来阅读书籍,并询问了他们在导演方面有哪些注意事项,同时请了现场的亲密协调员参与拍摄 もう少し踏み込んでお話した方がいいですか?

需要再深入讨论一下吗?

僕もなかなかどこまで踏み込んだ描写をするのか、彼らがどういう、要するに自認をしているのかというあたりが、演出する上でポイントになるなと思ったので。

団体の方たちと話していた時に、あの年齢の子たちが、例えば自分がゲイであるとか、トランスジェンダーであるという自認、もしくは他認をするというような認識をするということは、まだ早い段階の子供たちだ、ということで、そういう特定の描写をむしろ避けた方がいいのではないかというアドバイスをいただいて、極力というか、そういう描写を脚本から少しカットした、ということはあります。

我觉得在表演中,关键是要考虑到他们对自己的认同以及他们愿意展示多深入的描写。

当我与团队交流时,他们建议说对于那些年纪较小的孩子来说,例如他们自己是同性恋或者是跨性别者,或者是对他人的认同,这样的认知可能还为时过早。

因此,他们建议尽量避免特定的描写,我也在剧本中稍微删减了这些内容 。

そのうえでーー、これはもう映画を観ていただいたうえでの話になると思うんですけれど、、、その名付けようのない、自分の中に芽生えた、得体のしれないもの、あの子たちにとっては。

それを彼らは「怪物」と名付けてしまう、もしくは周りの抑圧によってそう呼ばされてしまう、そのことを描きたい。

僕が考えたのは、そのように自分の中に芽生えてしまった、自分でも理解できない自分の感情とか存在を、「怪物」だと思ってしまうという感情とか行為というのは、色んな所で色んな状況に置かれた子供たちの中で起きているだろうなと思っていて。

多分さきほど坂元さんが「孤独な人」といった人達だと僕も思っています。

その子たちを、孤独な状況に追いやってしまっている私たちっていうものを、要するに彼らから見れば私たちの方が「怪物」であるという、この私たちが彼らに見返されるというスタンスを、どういう風に映画の中に描いていくかということまでやるべきだということを、その相談させていただいた団体の方と話し合ったうえで僕が学んだことでした。

一番学んだのはそこでした。

そこを見失わないようにしようと思いました。

この辺で大丈夫ですか?

在那之前——我认为这是在您观看电影后的谈话——那种无法命名的、在自己内心中萌发的、难以捉摸的东西,对于那些孩子们来说。

他们将其称为“怪物”,或者是被周围的压抑所迫使称之为“怪物”,我想要描绘的就是这一点。

我想到的是,在自己内心中萌发的、自己也无法理解的情感或存在,被认为是“怪物”的感情或行为,在许多不同的地方和情况下发生在孩子们身上。

也许正如坂元先生所说的“孤独的人”,我也这样认为。

我们将这些孩子们推向孤独的境地,从他们的角度来看,我们才是“怪物”,这种立场是我们应该在电影中描绘出来的,这是我在与咨询团体讨论后学到的。

我最大的收获就是这一点。

我希望不要失去这一点。

这样可以吗?

監督 监督すみません、もう一点追加を。

一部でその子供たちが抱えた葛藤をネタバレだから言わないでくれと、言っているというようなことがささやかれたり、発言が飛び交ったりしているようなことを耳にしているんですけれども、観た方の感想で、なるべく先入観なく見た方がいいっていうのは間違いないと思うんですね。

そういう感想をいくつも目にしましたけれども。

決して、彼らが重ねた葛藤をネタとして扱ったつもりはありません。

あの、構成上、おそらくむしろ観た方が自分が当事者としてあの子供たちと向き合うためには、これも坂元さんの脚本の技術だと思いますけれども、できるだけ振り回された方が、見終わったときに自分がどこに着地するのかということが最初に分からないほうが、いいのではないかなという風に思っておりますので、そこは誤解のないようにという風に、僕自身は宣伝のスタッフにも伝えております。

ごめんなさい、余計な話かもしれませんが以上です。

对不起,我有一个小小的补充。

我听说有人在暗中议论着不要透露那些孩子们所面临的困扰,因为那会泄露剧情,也听到了一些言论飞扬的声音。

但是,根据观众的感受来看,我认为最好是不要带有先入为主的观念去看。

我看到了很多这样的感受。

绝对不是要把他们所经历的困扰当作话题来对待。

在剧情构思上,也许更多是为了让观众在面对这些孩子时,能够更好地与他们共鸣。

这也是坂元先生剧本的技巧所在。

我认为,被剧情牵引着,不知道自己最终会走向何方,这样的体验可能更好。

所以,请不要误解,我已经向宣传团队传达了这一点。

对不起,可能是多余的话,就说到这里吧質問者 提问者坂元さんに伺いたいんですけども、先ほど、今回の作品を通して監督をするのは自分には無理だというようなことを感じたということをおしゃっていましたけれども、今回自分が書いた脚本がこういう形で映像化、作品になったのを観て、自分の想像以上のものができたのかとか、どういうようなことを感じたのかというところを教えていただけますでしょうか。

我想向坂元先生请教一下,刚才他提到了他觉得自己无法担任这部作品的导演,我想知道他对我这次写的剧本以这种形式被拍成电影、成为作品后的感受,是否超出了他的想象,以及他有什么样的感受。

能请您告诉我吗?

坂元まず、主演する二人の子供たちを観ているうちに、自分の子供時代のことをどんどん、どんどん思い出しました。

自分の名前も忘れて顔も忘れていたはずの友人の顔が、その時急に思い出すなどして、それはもう新鮮な驚きでした。

首先,当我看着两个主演的孩子们时,我不断地回忆起自己的童年。

我甚至突然想起了曾经忘记了名字和面孔的朋友,这真是令人惊讶的新鲜感 映画全体としては、本当に本づくりの段階から監督はじめ皆さんに引っ張っていただいて、多くの知己をいただきながら書きあがったものが、編集の段階でもまたよりどんどん変わっていき、というか良くなっていき、映画が成長していく、作りながら、私が書いた設計図にしかすぎない脚本が、どんどん人々が息づいていく、作品になっていくその様子に驚きましたね。

一人の観客として出会えたので、それが何よりかなと思っています。

整部电影来说,从真正开始制作的阶段起,导演和大家一起努力,得到了许多知己的帮助,最终完成了剧本。

在剪辑的过程中,电影不断地变化,变得越来越好,不断成长。

在创作的过程中,我写的剧本只是一张设计图,但它逐渐被人们赋予了生命,变成了一个作品,这让我感到非常惊讶。

能够以一个观众的身份与之相遇,这对我来说是最重要的。

質問者 提问者実質、今回が映画の脚本としては2本目という風におっしゃっていましたけども、それがこれだけ世界的に大きな賞をもらって、このことがご自身の今後に影響を与えたりするようなことがあると思われますか?

实际上,您曾经说过这是您的第二部电影剧本,但是这部电影却获得了如此重要的国际奖项,您认为这会对您的未来产生什么影响吗?

坂元もう少し早く映画を始めていれば変わったのかもしれないですけど、私もう結構なベテランでカスカスなんですね。

絞っても何もでない状態なので、まあ日々いろんなことを学び周りの方に助けていただきながら、書いてるんですが、正直自分がこれから何を書けるのか全く見えてはおりません。

振り返った時に『怪物』が自分をもうひとつ成長させてくれたものだったなって10年後に、もしこんなこと言いながらバリバリ書いていたとしたら、この時だったなと思うのかもしれませんが、今はもうカスカスです。

(笑) 如果电影能早点开始,也许会有所不同,但我已经是个老手了,有点老态龙钟的。

就算再努力也一无所获,所以我每天在学习各种事情的同时,也在向周围的人寻求帮助,写作。

但说实话,我完全看不到自己接下来能写什么。

十年后回首,我可能会觉得《怪物》让我再次成长了一些,如果我在这个时候说着这样的话,努力地写作着,也许会觉得那就是现在吧。

但现在我已经有点老态龙钟了。

(笑)質問者 提问者あともう一つだけ確認で。

今内容に関してカスカスだということだと思うんですけど、例えばこれから書くもので映画になるのかドラマになるのか、それとも他のものになりうるのか、そこら辺については何かありますか。

还有最后一个问题要确认一下。

我觉得现在关于内容方面已经很清楚了,但是比如说接下来要写的东西会变成电影还是电视剧,或者可能会变成其他的东西,对于这方面有什么想法吗?

坂元当面、映画を書くことは決まっています。

ドラマは決まっていません。

现在我已经决定要写电影剧本了。

至于电视剧,还没有确定質問者 提问者先ほどの質問と重なることがあると思うんですが、これまでたくさんのお仕事をされてこられて、トレンディドラマもご自身を鍛えてくれたとおっしゃっておられて。

そのあとも様々な社会的テーマと言われるようなところにも次々と取り組んでこられて、作風の幅を広げてこられたという印象を持っているんですけども、この『怪物』はご自身にとってこれまでの書かれた作品の中での位置付けと言いますか、これまでの取り組みの中から『怪物』のプロットに繋がるものがあったのか、そういったことをお伺いしたいです。

我觉得这个问题与之前的问题有些重叠,您之前已经做了很多工作,也说过流行剧锻炼了您自己。

之后,您也接连着涉足了各种被称为社会主题的领域,拓宽了自己的创作风格,这是我对您的印象。

那么,《怪物》在您之前的作品中扮演着什么样的角色呢?

在您之前的探索中,是否有与《怪物》情节相关的元素?

我想请教您这些问题坂元2010年に「Mother」というドラマをつくりまして、脚本を書きまして、2011年に「それでも、生きてゆく」というドラマの脚本を書きました。

その時からずっと、先ほどもお話しましたが、抱えていた問題が自分の中にずっとあって、それがここでこんなお話をすることが相応しいのかどうか分からないのですが、加害者というのをどのように描けばいいのか、それが私にとって12年間の長い長い課題というか、自分が考えていきたいテーマだったんですね。

先ほどもちょっと言いましたが、加害者がどのようにすれば被害者の存在に気づくことができるか。

私たちは被害ということに対して自分自身よく考えることがあるんですが、自分自身の加害という行為に関して考えることは難しい、気づくことは難しい。

それをどうすればいいんだろうかということは、私の長年のテーマだったんですが、先ほどのクラクションの話もそうなんですが、『怪物』で辿ったのは加害者が被害者の存在に気づいていく、その道のりを自分なりに今現在書ける最も適したもの、現状書けるものがコレだったという。

そういうことを、“社会的”という話も出たんですが、それにまつわることをずっと考えてきたということなんですよね。

ですから、これで一つ自分なりの道筋というものになっているといいなと思うんですが、それが、答えが出るかは分からないのですが、現状コレです。

2010年我制作了一部名为《Mother》的电视剧,并担任编剧,2011年我又写了《即使如此,依然活着》的剧本。

从那时起,一直以来,我一直有一个问题困扰着我,这也是我在这里谈论的内容是否合适的问题。

我不知道如何刻画加害者,这是我长达12年的一个长期课题,也是我想要思考的主题。

刚才我也提到过,加害者如何意识到受害者的存在。

对于受害我们常常会好好思考,但对于自己的加害行为却很难思考,很难意识到。

我一直在思考如何解决这个问题,就像刚才提到的汽车喇叭的故事一样,《怪物》所经历的就是加害者意识到受害者的存在,这是我目前能够写出最适合的、能够表达现状的故事。

关于这个问题,我一直在思考与之相关的社会问题。

因此,我希望这能成为我自己的一条思路,但我不知道是否能找到答案,目前只能是这样質問者 提问者ありがとうございます。

関連して監督にもお伺いしたいのですが、是枝監督はこれまで坂元さんの作品を観ていて、ご自身の関心とやはり同じものがあって同じ時代を生きていて、そういったこともあって、もしご自身が脚本お願いするなら坂元さんにと前々から言われていたと。

今の“社会性”といった、坂元さんがずっと取り組まれてきた、そのことに関しては監督としては今回の作品を含めても、テーマといったところと、今の坂元さんの発言に関して監督からひと言頂ければと思うんですが。

非常感谢。

我想询问一下导演相关的事情,是枝导演之前看过坂元先生的作品,他对坂元先生的作品非常感兴趣,觉得自己和坂元先生有着相同的关注点,生活在同一个时代,因此一直对坂元先生说,如果要找编剧的话就找坂元先生。

关于现在的"社会性",坂元先生一直在努力探索的这个主题,导演希望能在这次的作品中包含进去,并且希望能从导演那里听到一句话,关于坂元先生现在的言论監督 监督難しいですね。

世代的には僕の方がちょっと上なんですけれども、僕も初めて書いた脚本はディレクターズカンパニーに持って行っているんですよ。

僕は89年だったか90年だったか。

相米慎二に憧れて。

出発点から結構似てるんですよね。

90年代、僕はフジテレビの視聴率1%未満の深夜ドキュメンタリーをやりながら、坂元さんのドラマを見る、心の余裕のない20代〜30代を過ごしたんですけれども。

先ほどの「Mother」や「それでも、生きてゆく」―「それでも、生きてゆく」は僕の中では圧倒的な打ちのめされ方をしたドラマなんですけれど、自分が関心を持っているモチーフをこんな形で連続ドラマで、しかもラブストーリーで真摯に取り組んで、ドラマを通して何ができるのかを模索している、作り手がいる。

本当に、演者と演出と脚本が信じられないくらい高いレベルで成立しているなと。

そこから目が離せなくなったっていうのが、正直なところで。

“社会派”と言われると坂元さんも「ん?

」と思うと思うし、僕も“社会派”っていわれるくくり方であまりピンとこないっていうのが正直なところなんです。

モチーフとして選んでいることと、その先で作り手が何を考えて何を描こうとしているのかと、結果的にどんなものになったのかというのは、必ずしもイコールでつながらないもので。

特にドラマでも映画でもそうですが、集団でつくってるし、作り手が描こうと思っていないものが描かれちゃったりするので、あまりそれを決めたくないなという気持ちはあります。

ただ、同じ時代に生きて同じ空気を吸ってきた。

でも吐き方が違ってきた。

吐き方は違っていた脚本家と監督が、今回は息を合わせてつくったという感じです。

嗯,确实挺难的。

虽然从年龄上来说,我比你大一点,但我也是第一次写剧本时拿给导演公司看的。

我记得是89年还是90年。

我当时非常崇拜相米慎二。

从起点来看,我们有些相似。

在90年代,我一边做着富士电视台收视率不到1%的深夜纪录片,一边看着坂元先生的剧集,度过了一段没有心灵寄托的20多岁到30多岁。

刚才提到的《Mother》和《即使如此,也要活下去》——《即使如此,也要活下去》在我心中是一部令人震撼的剧集,我在连续剧中以这样的形式,而且还是一部爱情故事,真诚地探索着自己感兴趣的主题,试图通过剧集找到自己能做些什么,真的,演员、导演和编剧的水平达到了令人难以置信的高度。

从那时起,我就无法将目光从剧集上移开,这是我真实的感受。

如果说坂元先生被称为“社会派”,我想他也会有些疑惑,而我对于被称为“社会派”也不太能理解,这是我真实的感受。

选择作为主题的事情,以及制作人在此基础上考虑了什么,想要描绘什么,最终成为了什么样的作品,这些并不一定是相等的。

特别是在剧集或电影中,因为是集体创作,所以有时会出现制作人没有想要表达的东西被描绘出来的情况,所以我不太想去确定这一点。

但是,我们生活在同一个时代,呼吸着同样的空气。

只是吐出的方式不同了。

这次,编剧和导演以一种协调的方式合作创作質問者 提问者ちょっと軽い質問してもいいですか。

すみません。

可以问个简单的问题吗?

对不起 せっかくカンヌに行かれたので、坂元さんにはレッドカーペットを歩いた時とか、現地で過ごした感想を聞きたいのと、是枝監督には、授賞式後、役所広司さんと2ショットで写真を撮られたりされていましたが、現地で経験したことなど聞ければというのもあり。

さらに、1つちょっと気になっていたのが、レッドカーペットでかかっていた曲が『菊次郎の夏』の「Summer」だったのが凄く気になっていて、もし現地で間違えちゃったんだと言われたとかあったら、と気になっていたんですけど…とりあえず、そのカンヌの思い出話、楽しかった思い出話などを聞けたらなと思います。

既然你去了戛纳,我很想听听坂元先生走红毯时的感受,以及在当地的体验。

还有,我听说是枝导演在颁奖典礼后和役所广司先生合影了,我也想知道在当地的一些经历。

另外,有一件事情我一直很在意,就是在红毯上播放的那首歌是《菊次郎的夏》的"Summer",这让我非常好奇。

如果有人告诉你在当地搞错了的话,我也很想知道。

总之,我希望能听到一些关于戛纳的回忆和有趣的故事坂元楽しかった思い出ではないんですが、私3日間滞在していたんですが、お腹を壊してしまいまして、 虽然不是令人愉快的回忆,但我在那里逗留了三天,结果患上了肠胃不适 3日の内2日寝込んでおりました。

ただ、ギャガのスタッフの方が優しく、クッキーとウエハースを持ってきてくださって、そのウエハースを食べたらとても美味しくて、カンヌに来て良かったなと思いました。

多分、一生あれより美味しいお菓子を食べることはないような気がします。

とっても美味しかったです。

帰るときでしたね、治ったのは。

我在三天内有两天都病倒了。

不过,幸好有个嘎嘎的工作人员非常友善,给我带来了饼干和威化饼,吃了那个威化饼后觉得非常好吃,觉得来干啊真是太好了。

也许一辈子都不会再吃到比那个更好吃的零食了吧。

真的是太好吃了。

正好在回去的时候,我就好了質問者 提问者じゃあ全然、南仏のお料理みたいなのは… 那么,完全就像南法的料理一样..坂元料理は機内食は美味しくいただきました。

でもほんとに、どんな料理を食べるよりどんな美味しいものを食べるより、スタッフが持ってきてくださったウエハースが最高でした。

我在飞机上享用了美味的机内餐。

但是说实话,比起吃什么料理都更美味的是工作人员给我送来的华夫饼干,简直是太棒了質問者 提问者公式上映のときは大丈夫だったのですか?

正式上映的时候一切都好吗?

坂元あの日は大丈夫でした。

あの次の日の午前中に倒れてしまったんです。

いい思い出です、これは。

那天没事。

第二天上午我突然倒下了。

这是个美好的回忆質問者 提问者ありがとうございます。

非常感谢您。

監督 监督レッドカーペットの音楽はですね、事前に何にしますかと聞かれました。

それで坂本龍一さんの今回の『怪物』のテーマ曲をお願いします、という風に伝えました。

かかったら久石譲さんだったんですよ。

(苦笑)これはなんでだか分からない。

何かを間違ったんだと思うんですけど。

在红地毯音乐的选择上,有人事先问我要播放什么。

我告诉他们请播放坂本龙一先生这次的《怪物》主题曲。

结果播放的却是久石让先生的曲子。

(苦笑)我不知道为什么会这样。

可能是我搞错了什么質問者 提问者やっぱりそうですよね。

絶対、坂本龍一さんの曲じゃないの?!

と凄く思っていて。

果然是这样啊。

肯定是坂本龙一先生的歌曲吧?!

我真的非常这么认为。

監督 监督当然そうだと思って歩き始めたんですけど、違いましたね。

(苦笑) 当然我以为是这样,开始走了起来,但是结果却不一样呢。

(苦笑) 上映終わって出てきてもまたかけてきたので、大好きな曲ではあるんですが・・・なぜあれがかかったのかは分かりません。

授賞式でレッドカーペットを歩いていても、「タケシ!

」と声をかけられましたんで。

もしかすると、どっかで何かこう違っていろんなことが伝わってるかもしれないです。

(苦笑) 电影放映结束后,我出来的时候又开始播放了,虽然是我非常喜欢的一首歌,但我不知道为什么会播放那首歌。

在颁奖典礼上走红毯的时候,还有人喊着我的名字:“Takeishi!

”也许在某个地方有些事情发生了变化,传达了各种不同的信息。

(苦笑)質問者 提问者そのあとの北野監督のレッドカーペットでも「Summer」が流れていたので・・・ 在北野导演的红地毯之后,也播放了《夏天》这首歌曲,所以..監督 监督そうですか。

そっちでもしかすると『怪物』が流れたんじゃないかと思ってたんですけど。

(笑) 是吗?

我在那边也有点想着会不会有"怪物"出现呢。

(笑)質問者 提问者だから、日本の作品は全部久石譲なのかなと思っていたんですが。

所以,我一直以为所有的日本作品都是由久石让创作的監督 监督だとすると、だいぶ雑ですよね。

(笑)まあいい曲でしたけどね。

いい曲だったんですけど、ちょっと 如果是这样的话,那就有点杂乱了呢。

(笑)嗯,虽然是一首不错的歌曲。

虽然是一首好歌,但有点.. せめて坂本さんにして欲しかったな、というのがレッドカーペットを歩いた皆の共通の意見でしたね。

大家都有一个共同的意见,希望至少是坂本先生走上红毯。

質問者 提问者やっぱそうですよね。

凄い気になってました。

没错,是这样的呢。

我一直很在意呢。

監督 监督すみません。

伝えておきます。

役所さんとの舞台裏については、、、まず、受賞の瞬間に役所さんの名前が呼ばれたときに、僕と安藤サクラさんが一番叫んで歓声をあげていると思います。

そのぐらい格好よくてというかですね、本当に嬉しかったです。

役所さんがあの場所で評価をされるということが。

不好意思。

我会转达的。

关于与役所先生的幕后事情,首先,在颁奖的那一刻,当役所先生的名字被宣布时,我和安藤樱小姐应该是最大声地欢呼了起来。

这是因为役所先生真的很帅气,或者说,我们真的非常高兴。

因为役所先生在那个场合得到了认可 裏で記念写真を撮って、役所さんも恥ずかしがり屋さんなので、あまり受賞した喜びをそんなに言葉にするということはなくてですね、裏で話したのは、今後の日本映画をどうしていくか、みたいな。

日本映画界をどうよくしていくか、みたいなことをまた戻ったら話し合いましょうね、という実務的な話をしていました。

ずっと応援していただいているので、僕らがやっている活動も含めて。

そのお礼を伝えて、日本に戻ったらまた話しましょうっていう、そういう話です。

在内部拍摄纪念照片时,由于役所先生是个害羞的人,所以并没有过多地用言辞表达获奖的喜悦。

我们在内部讨论的是关于未来日本电影的发展方向之类的话题。

我们将来可以再次讨论如何改善日本电影界之类的实际问题,因为您一直以来都给予了我们很多支持,包括我们所从事的活动。

这是一种表达感谢之意,并表示在回到日本后再次交流的谈话質問者 提问者ありがとうございます。

非常感谢您。

質問者 提问者坂元さんにお伺いしたいんですけど。

今回、脚本賞を受賞して、今後の作品とかもより一層注目度が高まるかなと思うんですけど、その辺、プレッシャーや不安に感じることはありますか?

我想向坂元先生请教一下。

这次获得了剧本奖,我觉得今后的作品会更受关注,您是否感到了更大的压力和不安呢?

坂元プレッシャーのない仕事をしたことがなくて。

しかもあまり結果も出たことが、私はそんなにないものですから、いつも怒られながら、謝りながら仕事をしていて。

それはビジネス的な面で、とても脆弱な脚本家なものですから。

いつも細々と、細々というか、細々というと自虐が過ぎますが、皆さんにお仕事をいただきながらやっているものですから、それは今後もプロデューサー次第だと思うんですけど・・・これでそのプロデューサーたちがおめでとうって言ってくれたり、ご飯食べましょうって言ってくれたり・・・なんの質問でしたっけ?

嬉しかったです。

我从来没有做过没有压力的工作。

而且我也没有取得太多成果,所以我总是在被责备和道歉的同时工作。

这在商业上,对于一个非常脆弱的剧作家来说是很常见的。

我总是默默地,或者说是自嘲地做着这些工作,同时也在接受大家的委托。

这将取决于未来的制片人,但是如果那些制片人能够对我说声祝贺,或者邀请我一起吃饭...我忘记了你的问题是什么?

我很高兴。

質問者 提问者世に出していく上で… 在我们走向世界的道路上..坂元本当にもうカスカスなんです。

ただただ、仕事をしましょうって言ってくださることが嬉しくて。

それにホイホイついて行ってしまっている自分がお調子者で情けなくて。

本当に書けない、ゴメンゴメン、と言いながら謝りながら、周りの方が大丈夫書けるよって言ってくださって、支えられながらやっているので。

すみません、愚痴をこぼして。

今後、自分が変わっていくとは現状は思えないです。

ただただもう、脚本を書くのは地味に毎日朝、仕事机に座って、夜寝るまでずっとパソコンの前に座って。

私の万歩計、日々12歩なんですね。

トイレに3回行ったくらいなんですけど。

大晦日、元旦以外はずっとそんなことをしていて。

愚痴で申し訳ないですけれど、楽しい仕事でもないですし、ただただ真面目に文字を書くことでしか何も得られないものですから。

こうやってとても華やかな場に立たせていただきましたが、公開が終わったらまた私締め切りに追われて、コツコツとパソコンの前に向かうしかないですので。

とても楽しい気持ちにはなれないです。

真的是一团糟。

只是听到你说要工作,我就感到很高兴。

而且我自己也是个爱跟着去的人,真是可笑又可悲。

我真的写不出来,对不起,对不起,一边道歉一边说着,周围的人却说没关系,你可以写得好,他们一直在支持我。

对不起,我在发牢骚。

我觉得我未来不会有什么改变。

只是每天早上坐在工作桌前写剧本,一直坐到晚上睡觉。

我的计步器每天只有12步。

只去了三次洗手间而已。

除了大年夜和元旦,我一直都在这样做。

很抱歉发牢骚,但这份工作并不开心,只能通过认真写字来得到一些回报。

虽然我站在这样华丽的场合,但公开结束后,我还是会被截止日期追着,只能默默坐在电脑前。

我无法感到开心質問者 提问者そしたら、賞を受賞しても自分にご褒美といか、そういったリラックスする瞬間はないってことですか?

那么,您的意思是即使获得奖励,也没有属于自己的奖励或放松的时刻吗?

坂元昨日、そのジョン・キャメロン・ミッチェル監督からメールが届く直前に、ヒカリエでモロゾフのプリンを買いまして、これがご褒美だと自分に言い聞かせて、メールを読み返しながらプリンを食べました。

昨天,在收到约翰·卡梅隆·米切尔导演的邮件之前,我在光艺术中心买了莫洛佐夫的布丁。

我告诉自己这是个奖励,一边阅读邮件,一边享用着布丁質問者 提问者次の作品に向き合うときに、インスピレーションとかそういったものとかって自分の中であったりするんでしょうか?

当你面对下一个作品时,你是否会有灵感或类似的东西在你内心中存在?

坂元本当にごめんなさい、後ろ向きの話ばかりで。

やっぱり35年経つとインスピレーションが皆無になります。

何もひらめかないですし、思いつくことも何もなくて、パソコンに我慢して向き合った時間の長さだけが何か生んでくれる状態です。

もう何か普段ポンッと思いついたり、お風呂に入ってる時に閃いたとか、頭に電球が灯るようなことが、もう全くないですから。

ただただ頑張ってパソコンの前から離れない、椅子から立たない、それを一年中続ける、ということだけが、それを辞めない、諦めずに真面目にやる、ということだけが、書き終わるという日を迎えるので。

すみません、インスピレーションの話をされただけでこんなに長い愚痴を言ってしまって。

真的很抱歉,一直在说消极的话题。

毕竟35年过去了,灵感已经完全消失了。

没有任何闪念,也没有任何想法,只有面对电脑所花费的时间变得更长,才能产生一些东西。

我已经没有那种平时突然想到什么,或者洗澡时灵光一闪的感觉了,头脑中已经没有灯泡亮起的事情了。

只是不停地努力,不离开电脑前,不离开椅子,坚持一整年,只有这样才能迎来写作完成的那一天。

对不起,只是被提到灵感,就说了这么长的牢骚質問者 提问者是枝監督、どうですか聞いてて 请问是枝导演,听了感觉怎么样?

監督 监督ねえ、ちょっと、あれですよね、坂元さんにそう言われちゃうと。

(苦笑) 嘿,稍等一下,就是那个,被坂元先生这样说了的话。

(苦笑) でもあの、似てる瞬間はあって。

僕も編集をしているとやっぱりもう、閃きを待っていてもしょうがないので、朝からとにかく夜中まで画面の前に座って、あーでもないこーでもないって手を動かし続けるっていう。

それをとにかく休まずにやっているうちに何か、千回試せば一回いいことが訪れるみたいな、そういう気持ちで祈りながら、画面の前に座っている時間がありますけれども。

今すごくシンパシーを感じたのは、同じような瞬間を生きながら、ようやく作品を生んでいるんだなという、そこでした。

但是,那个,确实有一些相似的瞬间。

当我在编辑时,无论怎样等待灵感都没有用,所以从早上一直坐在屏幕前,直到深夜,不停地动手做这个那个。

在不停地做着的过程中,总有一种感觉,就像是如果尝试了一千次,就会有一次好事发生一样,我一边祈祷着,一边坐在屏幕前。

我现在非常能感受到的是,与你们一起经历着类似的瞬间,终于创造出作品的感觉,就是在那个时刻質問者 提问者今後もお二人で作品をつくったりとか、そういったことを考えていますか。

你们以后还会继续一起创作作品之类的吗?

有考虑过这样的事情吗?

監督 监督チャンスがあれば僕はお願いしたいと思ってますが、坂元さんがいやもうこれでっていうことだとちょっと困っちゃうんですけども。

でも今、周りの声に応える形で、こう、ね、引き受けてって言われてるから、声掛け続けようかなって思ってます。

如果有机会的话,我想向坂元先生提出请求,但如果他已经不想再继续了,我会有点困扰。

但是现在,为了响应周围的声音,我在考虑接受这个任务,所以我想继续尝试与他沟通坂元仕事1回ってこう、偶然でもあるじゃないですか。

でも、2回仕事するっていうのは偶然じゃないですから、そんな、監督とお仕事できることが簡単なことだとは、もちろん僕は前提として、“脚本家”是枝裕和さんをとてもとても尊敬していて、見上げている存在ですので、その方が自分で書かずに僕に依頼するということが、とてもそんな簡単にあることとは思ってませんけれど。

またね、もう一回やりましょうって言われることが、仕事をしていくうえで最も嬉しいことですから、2回目っていう必然があったらこんなに幸せなことはないですよね。

工作一次是偶然的,但是工作两次就不再是偶然了。

所以,能够和导演一起工作是一件很容易的事情,当然我是以“剧本家”是枝裕和先生非常非常尊敬并仰慕的存在为前提的。

他不自己写而是委托我来写,我并不认为这是一件容易的事情。

而且,当被告知再来一次的时候,这是我在工作中最开心的事情,如果有第二次的机会,那将是多么幸福的事情啊質問者 提问者是枝さんに一つお伺いしたいんですけども。

今回『怪物』が脚本賞で、トラン・アン・ユン監督が今回監督賞をとりましたけど、『幻の光』と『シクロ』でしたっけ、あの年以来の再会と共に受賞ということで、喜びを分かち合っていたとしたらご感想をお聞きしたいです。

我想向是枝先生请教一个问题。

这次《怪物》获得了剧本奖,导演陈安运也获得了导演奖。

我想知道,如果这是自从《幻の光》和《シクロ》之后的再次相聚并共同获奖,您对此有何感想呢?

監督 监督いやぁ、嬉しかった。

デビュー作でベネチアに行ったときに、彼はカメラドールを撮った後の二作目でベネチアに来ていて、同じコンペで出会ったのがお互い、多分同い年だと思うんですけど、33歳の時で。

そこから交流が始まって、彼が日本で『ノルウェイの森』を撮るときには現場に陣中見舞いに行ったり、僕がキャンペーンでパリに行ったときにはご飯を食べたりみたいな関係はずっと続いて来たんです。

哎呀,真是太高兴了。

当我第一次去威尼斯参加电影节时,他正好在拍摄他的第二部电影《摄影师》,我们在同一个竞赛中相遇了,可能是同龄人吧,我猜他当时应该是33岁。

从那时起我们开始交流,当他在日本拍摄《挪威的森林》时,我去了现场看望他,而当我去巴黎进行宣传活动时,我们还一起吃饭,这样的关系一直延续至今 ただなかなか同じタイミングで作品を発表するということもなく、映画祭で再会ということもなかったものですから、それが今回こういう形でご一緒できて、僕は上映にも参加させていただきましたし、主演がジュリエット・ビノシュさんだったので、なんか三人で会場でこう抱き合ったのが、なんだろう今回の中盤のクライマックスでした。

最終日の授賞式のときには、ホテルで着替えて廊下に出たら、エレベーターを降りたトラン・アン・ユンがやはり着替えの途中でいて、あ、呼ばれたんだね!

ってお互いにそこで分かって、またそこで一度抱き合いましたけども。

なんか映画祭って、そういう形で長い時間かけてつくってきたことが報われるっていうのは、賞以上に、そういう瞬間というような気もしています。

由于很少有机会在同一时间发布作品,也没有在电影节上再次相遇,所以这次能以这种方式一起参与,我也参与了放映,而且主演是朱丽叶·比诺什女士,所以我们三个人在会场拥抱在一起,这是本次活动的高潮。

在最后一天的颁奖典礼上,当我在酒店换衣服走廊时,陈安云也正在换衣服的途中下电梯,我们互相看到对方后,就知道彼此被叫去了!

我们在那里再次拥抱了一次。

电影节,我觉得不仅仅是获奖,更是对我们长时间努力付出的回报 とてもいい再会でした。

这是一个非常愉快的重逢。

 3 ) 怪物无处不在

首先说明这个电影不是狭义上的Happy Ending。

因为之前已经知道影片是从三个角度进行叙事,拿下了酷儿金棕榈也就是代表了故事会着墨于LGTBQ的方面。

三个角度的叙事并没有像《金刚川》那么机械生硬的三个主观视角出发,而是各有穿插。

可以说是从妈妈、老师、校长这三个孩子以外的角度来对同一件事进行描写,但这三个视角也不是单一的把一件事按照同步的时间线去展现,通过一些镜头语言甚至声音将故事完整的展示给观众,是枝裕和自己当剪辑算是完成了这个任务,但有些片段之后跟小伙伴的交流中还是“捋一捋”才能拼凑出完整的时间线。

也因为这样的叙事方式,所以在影片的前三分之二都带有很强的悬疑感,虽然稍显冗长但因为各有穿插,在事件全貌逐渐明朗的时候观众自己会不由自主的“哦”,甚至有一种破案的快感。

当悬疑部分逐渐清晰,故事来到了酷儿主题的部分,因为提前知道影片有所涉及,前半段都在寻找酷儿元素,但除了两个男孩子这个明显元素之外没有见到其他蛛丝马迹。

甚至一度以为酷儿主题是展现为更为宽泛的诸如霸凌、孤立等的行为,没想到后续给到的是比《亲密》更为直给的同性感情。

两个同为单亲家庭的少年,其中一个虽然看起来更小更可爱(是真的很可爱 )但更为成熟,成熟懂事到让人心疼,甚至感觉早已完成了身份认同。

另一个则是更为现实的处于懵懂期、挣扎期,通过剪头发等行为来否定自己的感情。

描述两个人感情的段落算是全篇比较阳光的部分,加上坂本龙一的配乐真的有点甜。

火车车厢里完成关系揭示的段落堪称全片名场面,用小伙伴的话说已经拍出了性张力,当我以为难道东亚电影要出现让孩子展现超越友情表达行为的时候,影片用了一个很巧妙的方式来完成了必要的表达。

回到影片名字《怪物》,其实这更有点像麦格芬,故事里没有明确什么是怪物,但其实怪物无处不在 。

是谣言还是偏见?

是报复父亲放火的小孩还是意外压死孙女让丈夫顶罪的校长?

是霸凌同学的学生还是息事宁人的老师?

是社会长久以来对于LGTBQ的歧视还是我们可能都有经历过的对“娘娘腔”的嘲笑?

怪物实际无处不在。

是枝裕和再一次把社会性讨论加入自己的电影中,而这一次由坂元裕二操刀的剧本则比导演自己之前的作品所探讨的主题更为复杂。

如果要说缺点的话,还是回到多角度叙事,在敲这片小作文的时候真的有在努力回想剧情以及捋时间线,还有会思考诸如“我喜欢了一个女孩子”“我刚才是撒谎的”这些更为直接段落的必要性 ,总的来说电影没法让人一次性觉得这个故事很顺,所以正式公映还会再去看一遍。

开头就点明了电影不是狭义的happy ending,两个孩子从火车出来后看到眼前的铁路桥畅通无阻,而现实中的铁路桥是有一道铁闸的,也就意味着两个人是真的“投胎”了。

本来抱着对导演以往作品的了解,不会真的搞死两个小孩 。

看到狭小的通道有亮光的时候以为真的如镜头语言可以有一个happy ending的时候,忘了这次编剧不是导演自己啊,还是用了隐晦的、温暖的方式kill them softly。

其实对于两个涉世未深的孩子来说,也未尝不是happy ending。

(结尾也是散场后小伙伴挑明了才意识到,当场就想刀了编剧 )写于应该算中国首映的香港PREMIERE ELEMENTS影院优先场之后因为后劲太大睡不着的深夜。

端午节二刷后又发现一些新细节1. 影片第一个镜头就是刚放完火的星川2.麦野在阳台跟妈妈讨论人脑猪脑时,妈妈问是谁的观点,麦野停顿了一下才说是保利老师,这里就是撒谎的表现3. 麦野听到可以和星川一起去乐器室的时候,眼補一下就温柔了4. 两人听到乐器室门外声响开门之后的镜头里,距离乐器室最近的就是麦野的女同桌在洗手,说明是她在偷听,她什么都知道5. 第一段妈妈视角的叙事中,麦野在车上跟妈妈说的台词(字幕)是“我。。。。

和爸爸一样。。。

而在第三段孩子视角的叙事中,麦野的台词是“我不能和爸爸一样”大家都能看到之后发现的细节凑最后穿的T恤上印着it‘s been ages,somehow 他们永生了吧T_T

 4 ) 三种怪物,两个罗生门,一场祝福

是枝裕和导演的新作《怪物》是一部以“成为影史佳作”的自信姿态而登场的电影。

是枝裕和执导,坂元裕二编剧,坂本龙一配乐,安藤樱等领衔主演,可谓日本影坛保质保量的超强阵容。

这也给观众提前打下一剂强心针:这样的电影,又能差到哪里去呢?

功利而粗暴地说,电影《怪物》确实很成功,无论是来自戛纳的褒奖,还是豆瓣、IMDb、Letterboxd这些世界范围内拥有超百万用户的电影评分网站上一致的高分,无一例外佐证着这一点,它距离“又一部影史经典”显然只差在时间的推移下不断被大众观看、提及和赞美这个步骤。

但《怪物》真有那么好吗?

评论界似乎颇有异议。

在对影片进行深度剖析的新近评论中,坂元裕二的剧本弊病,是枝裕和“导演在场”本身的低存在感被不断指出,甚至有评论毒舌地断言,这不是是枝裕和的电影,而是坂元裕二的电影!

是枝裕和与坂元裕二在这场声量不小的讨论中,笔者几乎完全同意大部分评论就坂元裕二剧本层面提出的那些负面批评。

但对于《怪物》究竟是不是一部“编剧电影”?

坂元裕二的剧本是否凌驾于导演是枝裕和之上?

影片是否因此意味着那个古老的电影作者论–导演中心法则的失效?

笔者另一番看法。

坂元裕二的“罗生门”:真相是什么?

日本电视剧界鼎鼎有名的编剧坂元裕二,在过去将近40年的职业生涯中,已经为观众带来《东京爱情故事》《最完美的离婚》《母亲》《四重奏》等有口皆碑的爆款剧集。

1991《东京爱情故事》

2010《母亲》进入本世纪的第三个十年,传统电视台放送模式的日剧因受到流媒体制作的冲击而日落西山,坂元裕二也开始重新审视自己在电影剧本写作上的缺席(尽管他此前也曾参与过电影剧本的撰写,但均浅尝辄止)。

由此,《花束般的恋爱》和《怪物》两个极具分量的电影原创剧本便应运而生,正式宣告坂元在电影领域的踏足。

2021《花束般的恋爱》坂元裕二当然是一位非常优秀的编剧,甚至说他充满大智慧也毫不为过。

这显然是一个不容驳斥的既定的事实,任何的非议在其强大的作品序列面前都显得毫无意义。

但最优秀的电视剧编剧未必能成为最优秀的电影编剧。

坂元在电视剧剧本上那些精准的、犀利的、过于确定的、过于实际的、反对留白的写作优势,却在某种程度上成为他在电影剧本上的“绊脚石”。

坂元裕二他甚至不需要任何原型人物和原型事件支撑,精明到只需动用大脑里数十年积累的日常创作经验,便可以准确无误地把我们在情感生活中面临的困局构造出来,这就是坂元裕二的真正才华所在。

看看《花束般的恋爱》这部让人无法不动容、不感慨的爱情片吧。

坂元是如此信手拈来地呈现出当下东亚文艺青年的恋爱如何从燃起走向熄灭,连当事人都无法厘清的那潜移默化的爱情变质过程。

可以说,坂元是几乎毫不费力地在一件件的小事中将这个过程复盘了出来。

《花束般的恋爱》但这样精准的算计,放在需要更多情感驱动力和叙事可能性的电影艺术上,却显得如此地骨感、空洞,乃至滑稽。

结束观影后,我们还能从《花束般的恋爱》的那段恋爱里回味到什么?

还能从男女主角那里剖析到哪些没被看到的细节?

这些似乎都要打上一个大大的问号才行。

整部电影讲得太清楚明了、太滴水不漏,它压根就不打算给观众哪怕一丝找到破绽的机会,不打算给观众保留一处可供揣摩想象的空间。

《花束般的恋爱》“单亲妈妈发现儿子行为反常,一番询问后怀疑是学校老师对孩子实施了暴力和言语侮辱。

但在那位被认为霸凌孩子的老师的视角下,这个故事却发生了天翻地覆的逆转。

被霸凌的不是另有其人,而霸凌者恰恰是那位孩子……”纵观评论界对《怪物》剧本的讨论,黑泽明导演改编自作家芥川龙之介短篇的电影《罗生门》被频繁地提及和比较。

的确,这种围绕着同一事件展开的不同视角下的分述,在电影史上都不可能绕开《罗生门》而谈。

但坂元的“罗生门”显然并非黑泽明、芥川龙之介的“罗生门”。

在黑泽明的这场《罗生门》里,下一个人物(视角)所交代的“事实”,总是跟上一个人物讲述的“事实”有所偏差。

经由多方证词后,最初看似显而易见的真相便如滚雪球般越来越复杂,变得难以琢磨和确定。

它的启示是承认人类普遍存在的视差,以及对“真相的本质”“何谓真相”的哲学化思考。

黑泽明《罗生门》而在坂元裕二这里,上一个视角下的事实会立即被下一个视角下的事实无情地推翻,直到最后一个视角的出现,不再有任何被推翻的可能性,影片终于带领着观众找到了好像也没有太令人咋舌的“真相”。

显然,除了最后一个视角之外,影片中其他视角的存在都并没有太大的叙事意义。

坂元只在乎那个真相本身,电视剧时期积累下来的创作理念,让他有且仅信奉一种过于确定的命题作文式的写作。

这种反“罗生门”的罗生门结构,往好了说,每个视角都能看到一定的社会问题;往坏了说,其他视角的存在都是为了在最后那个直击真相的视角到来之前,撑够一部电影所需要的时长,是安置在悬疑叙事中的一出又一出自作聪明的、蹩脚的烟幕弹。

是枝裕和的“罗生门”:谁是怪物?

如果说在坂元裕二的剧本里,罗生门式的叙述结构所剑指的是当今世界(尤其是东亚社会)酷儿孩童遭受到社会残酷对待的真相;那么在是枝裕和的执导下,电影《怪物》似乎还有另一个可以从细节上寻觅到的“罗生门”的存在。

这个属于是枝裕和创造的罗生门,是一个关于“谁是怪物”的悬念的争夺。

第一个“怪物”,是影片中的两位未成年主人公麦野湊和星川伊里。

遭受到主流性别认同人群言语上的区别对待,乃至更为直接的暴力迫害,是酷儿血泪史里永远都说不完道不尽的苦难。

所谓的“怪物”,便是很长一段时间内主流社会对酷儿群体的唯一看法。

另一方面,由于被主流社会不断地排挤欺凌,酷儿人群无法简单地实现自我认同,也随着外界的舆论压力不断地异化着自我,将那个酷儿身份的自己视为怪物。

所以星川伊里总是妄图用“猪脑子”这一借口,试图将自己与酷儿身份割席。

而替星川伊里出头的麦野湊在被同班同学质疑后,也选择参与到欺负星川伊里的行列,甚至用剪掉自己头发这样的方式来“洗脱”外界对他的嫌疑。

他们在潜意识里,都把与众不同的自己视为某种有原罪的怪物。

第二个“怪物”是影片中参与霸凌星川伊里的同班同学(甚至那些没有直接参与、但却对霸凌视若无睹的同学),以及对星川伊里持续不断进行着言语侮辱、体罚和洗脑的父亲。

他们所代表的是“怪物”最为直接的那部分释义:那些不够善良的,或是邪恶的、丑陋的、没有人性的存在。

当这些角色在场的时候,影片总是用一种不太对劲的怪异气氛来加以强调,向观众暗示怪物的到来。

第三个“怪物”,是最难以被察觉到的,因为他们正是是枝裕和电影里从未缺席过的那些普通人。

他们太普通了,做着普通人理所应当做的事情,爱着普通人理所应当爱着的人。

但在必要的时刻,他们也会有某些邪恶的想法涌现,甚至付诸于怪物般的行为。

这些时刻宣告了人类自身永远无法摆脱的那一丝“怪物性”的存在。

想必不少观众将难以认可这样的说法,是枝裕和的电影里最常见到的不都是一群温柔的人吗?

尤其是那几部最能代表是枝裕和创作趣味的家庭群像电影里,几乎没有一个角色有对他人做过出格的行为。

如果你这样认为,那你一定是看得还不够仔细:不要忘记电影《步履不停》里那位每年都会在长子祭日之际,邀请曾被长子舍命救下的幸存者到家里做客的母亲。

2008《步履不停》她当然知道,这是对幸存者变相的惩罚泄恨,观众同样也知道;但她仍旧坚持这样做,而观众也默许了她这样做,毕竟她是个失去孩子的可怜母亲。

就是这样一种心有灵犀的默契,使得不仅“母亲”这一类在是枝裕和家庭片里有着无上美德的角色也可能成为怪物,而且允许这一切发生的观众同样也可以是怪物。

《步履不停》而在电影《怪物》当中,田中裕子所扮演的小学校长,则将普通人身上的善恶矛盾性展现得更为彻底:她一方面为了保住被认为是霸凌者的麦野湊的未来,便不惜伙同其他老师们,集体撒下弥天大谎;另一方面,在超市里无人注视的角落,她又可以毫不犹豫地伸出腿绊倒懵懂无知的小孩。

而那个“撞死孙女的真凶”的舆论争议,更进一步将这个角色推向深不可测的状态。

是枝裕和的作者性在场,恰恰就体现在这些或明示、或暗指的角色身上那潜在的怪物属性,这是身为编剧的坂元裕二那过分执着于“真相”的剧本所无法关照的。

只有在导演的调度里,在那有意无意拍摄到的角色的动作和细微的神态变化里,这场关于“谁是怪物”的罗生门式的争夺最终才能成立。

而这一次提供证词的对象不再是电影里的角色本身,每个观众心中也都有自己衡量“怪物”的标准。

结尾的祝福:被拒绝的类型工序在坂元裕二那个更关注事件“真相”及其背后的严肃社会议题的剧本里,故事最传统的收束方式无非两种:其一,施暴者认识到自身的错误,酷儿孩童的处境得到相关部门的注意,以一种好莱坞处理社会题材最常见的皆大欢喜收场;其二,暴露的真相并不会改变原有的社会规则,酷儿孩童将不得不继续忍受霸凌和非议,以一种韩国类型片处理社会议题最常见的无力感落幕。

然而影片最后一幕,这两种收尾均未出现,那场多次刻意向观众暗示的暴风雨将会导致的“灾难”也并没有真正地到来。

最终留下的是,暴风雨结束后孩子们在艳阳下自由奔跑的快乐身影。

麦野湊和星川伊里的困境仍旧悬而未决,他们将会走向怎么样的未来,我们永远不得而知。

按照是枝裕和导演本人谦卑的说法,这一幕是在坂本龙一确定担任配乐工作后他才决定拍摄的。

在是枝裕和看来,坂本龙一的曲子本身就有某种祈祷、祝福的温柔在里面。

所以这一幕,孩子们以及他们身处的这个世界都应该得到祝福。

但这种祈祷、祝福的温柔,何尝不是是枝裕和本人作为电影创作者一以贯之的某种作者意志?

何尝不是是枝裕和深思熟虑后的结果?

这个看似美好的收尾,或许是对这个酷儿苦难悬而未决的现实世界的背叛;但若一味强调冰冷刺骨的无力感,又在某种程度上剥削了酷儿的苦难史。

作为一个拥有高道德感的电影导演,是枝裕和所能做的最道德的选择,显然只能是跟坂本龙一的音乐一起,跟银幕前的观众一起,祈祷祝福孩子们光明的未来。

作者| 多尼达克;公号| 看电影看到死编辑| 骑屋顶少年;转载请注明出处

 5 ) 是枝裕和访谈随笔2

18年立项的时候打算在东京拍的,结果疫情一搞限制很多,才搬去诹访;本人说是很喜欢城市里的湖,但显然很多剧本上的关键要素是跟着改了的;特别是消息/谣言的传播这条暗线,相当重要,但在东京这种规模的城市去设计就不太真实了。

然后说了一个很有意思的细节,就是在设计教室里学生表演的时候,专门让一个人去当那种小学里经常有的显眼包,这里用了一个日本小学校里特别的例子,学生在体育课上会戴帽子,一般要么是戴红面,要么是戴白面,结果回忆起来老是有那么个人戴了个一半翻出来是红面,一半白面的,就加进去了连续看了三部片,步履不停,小偷家族和怪物,在其角色描述家庭的时候,全部都出现了一个词“ふつう”,大概是某种暗号和叙事的核心之一吧。

还有很有趣的,有人问为啥要叫“怪物”,结果答不上来了;但是其实片子里用了かいぶつ,化け物和モンスター的三种方式来说出“怪物”这个意思,若是枝不清楚的话,大概是板垣的设计吧。

 6 ) 一个健康的世界,应该容得下不同的声音,否则与怪物何异?

什么是怪物?

在家长眼里,霸凌孩子的老师和同学是怪物;在老师眼里,溺爱孩子、动辄就到学校来闹的家长是怪物;而在孩子们眼里,几乎所有大人都是怪物。

难怪片中会有这样一问:你还是人类吗?

若论怪物,最大的怪物非谎言和偏见莫属,它们不但不知道自己是怪物,反而把所有跟它不一样的都视为怪物。

怪物看谁都是怪物,因为它们无法看到真正的人。

真正的人是真实的、具体的、复杂的、多面的,岂是一句好坏、黑白、对错、一个标签就可以粗暴归纳的!

如果人跟人之间缺乏包容与理解,不能求同存异,彼此只剩下谎言、偏见和攻击,那么是的,我们身处的就是一个怪物的世界。

不能让所有人都幸福的就不是真正的幸福。

同样的,只要还有谎言和偏见的牢笼,就没人能得到真正的自由。

一个真正健康的世界,应该容得下不同的声音,否则与怪物何异?

你,是怪物吗?

 7 ) 身为怪物的孩子会遇见什么

01只有孩子才能看见大人们有多擅长粉饰太平。

从前看过很多罗生门叙事,但这部电影第一次让我感受到其中的巧妙。

即使已经到达结局,你回头也会发现母亲和老师其实都没有说谎,但他们看到的却并不是全部的真相,或者说,他们看到的只是自己认为的真相。

在母亲的角度里,她和孩子的关系和睦,他们看上去像是一对可以无话不谈的母子,即使父亲去世,母子也会保留为父亲过生日的仪式,母亲善解人意地从父亲的牌位前走开,好让孩子没有顾虑地和天上的父亲倾诉。

这位母亲也会在学校据理力争,想要为自己反常的孩子讨回公道。

于是观众越发不解,为什么拥有一个如此通情达理的母亲,凑依然会做出让人担心的举动。

家庭的暗面在第三幕中才得以揭露,父亲原来在与外遇对象的旅行中身亡,凑在牌位面前低诉,说的也不是父子间的温情谈话,而是委屈又无助的一句叩问:为什么要把我生下来。

至此母亲维系的体面开始崩裂,你看见每一句话、每一个行为,都成为了年幼的心的裂痕。

母亲说被移植了猪脑的人根本不是人类,模仿电视上男扮女装的搞笑艺人,希望凑像父亲一样组建普通家庭,每一句无心嘲笑,每一个恳切期待,都成为了过分锋利的匕首,少年唯有以自戕来应对这样的绝望。

凑的沉默背后是一个不敢问出的问题:妈妈,如果我就是那个长着猪脑的怪物,你还会接受我吗,你还会爱我吗?

另一边的老师尝试着尽责,却凭借不完整的场景曲解了事实,过分强调男子气概的价值观,也展示了一种异性恋语境霸权,给仍在摸索性别观念的少年们刺痛的一击。

当大人们后知后觉地道歉、迫近真相,孩子们却早已熟悉背面的世界并携手出逃,只留下作文纸上昭然又未被正视的谜底:沉默的、依偎的一双小小姓名。

02凑和依里藏在作文里的名字是镜像的。

文字是心理状态的其中一种表达,从文字的变形延展,你会发现其他的变形无处不在。

很明显的一点是,在过分沉重的压力下,凑变得无法处理对自己、对他人的感情。

他对亲爱的母亲哭泣、大叫,将手中的饮料瓶捏得吱呀作响,他推倒心爱的依里,和他打架,也突然打开车门以相当危险的方式伤害自身。

他本应该爱母亲,但母亲无意中否认了他,他本应该爱自己,但这个世界阻止他接纳自己,他本应该爱依里,但所有人都觉得男孩子不应该喜欢男孩子。

当爱被压制,无法被正当地表达,就会以另一种扭曲的方式呈现。

它往往会变形成爱的对立面,搅浑大脑和心脏,年幼的孩子无法内化这种痛楚,唯有以近似恨的方式释放,伤害他人,亦刺向自身。

凑和依里所执着的“转生”,也是一种变形,孩子们发现无法在现世获得幸福,于是寄希望于彼岸的世界。

03导演多次提到宫泽贤治的《银河铁道之夜》,这个故事讲的是,贫穷的男孩乔万尼在半人马座星祭当天做了一个梦,梦见和他最好的朋友康帕内拉乘上了遨游银河的列车,醒来后却得知朋友溺水身亡的噩耗。

宫泽贤治故事里蔓延的悲伤和电影如出一辙,作家似乎并不打算治愈谁,比起以幻想来修饰或弥补残酷的真相,作者更常以一种坦诚到冷静的态度去叙述贫穷、惩罚、孤独与死亡,看完他的作品总令人觉得萧索,心口像有冷风呜呜咽咽。

凑和依里的乌托邦正是一节废弃的列车车厢。

“康帕内拉”最后出场的父亲,对应了依里只有父亲露面的家庭。

而在那个最令我心碎的镜头里,也出现了躺在浴缸里奄奄一息的、浑身湿透的依里,对应了“康帕内拉”溺水身亡的结局。

凑是活下来的乔万尼,依里是死去的康帕内拉。

在最无能为力的年岁,他们所做过最勇敢的抗争,是为身后的你跳下行驶的车,是冲出门大喊“我撒谎了”然后面对父亲的殴打,是在台风天出逃,艰难地拖出心爱的人伤痕累累的身体。

孩子们一无所有,唯有用肉身和生命作筹码,赌死亡之后是美丽的转生,宇宙膨胀,时间逆流,总会等得到新天地。

银河铁道的终点是什么?

宫泽贤治写:“可是我们不在这里下车是不行的。

因为这里是天堂的入口。

”母亲的期待太锋利,父亲的拳头太沉重,你也痛得无法忍受吗,我亲昵的朋友,那一起逃跑吧,奔向银河铁道灿烂的终点。

或许在某个转生的世界,你我这样的孩子不再会被称为“怪物”。

04看到有人质疑,这么小的孩子能否分辨这样的情愫,我想说我也是在相仿的年纪,第一次喜欢一个女孩子,并在同样的欢欣、迷惘和恐惧中走过了漫长而曲折的成长期。

我想艺术作品存在的意义,是为人生提供更多样化的答案,让我们通过参照来确认自身。

希望以后更多像凑和依里这样的孩子,能因为电影的启发,而更理解、爱惜自己。

我们不是怪物。

 8 ) 直男直女如何观看《怪物》,影片里的三类主角

是枝裕和的新电影《怪物》讲述了两个青少年在班级里互生情愫,却遭受了一系列不公对待。

《怪物》运用了日本悬疑叙事手法,通过三个视角的转化还原事件,这一多角度叙事在网上也被称为“罗生门”叙事手法,《罗生门》是日本电影导演黑泽明用芥川龙之介短篇小说改编的一部电影,里面通过不同人物的不同叙事,不断转化立场和嫌疑人,叙事前期也让人无从得知事情的真相。

然而是枝裕和曾亲自解释过,与《罗生门》不同的是,《怪物》这部电影虽然也运用了三种不同的视角,但事情的真相一直放在那里,没有改变过。

也就是说,《怪物》的不同视角不着眼于制造焦点,转换悬念,从而让观众产生一种对于真相是什么的强烈探究欲。

相反,《怪物》里的三种视角本身就是对三个群体的记录,很多观众在一开始就已经了解了,这是一个有关同性性启蒙的青春期灰暗故事,既然故事的主线和基调整体上没有那种柳暗花明的大变化,那么电影为什么还要费尽周章让我们完整看完三个视角呢?

我想这和电影的主题有关,什么是怪物?

是东亚社会的传统家庭结构、我们成长过程中缺位的性教育、杀人于无形的舆论、还是儒家文化圈过于“大同”而忽视了“小异”的思想规训?

以上这些结构化的东西不仅是性少数成为“怪物”的原因,也是每个人都有机会沦为“怪物”的原因。

因此,我认为《怪物》里的三种视角其实也代表三种主角,每一种主角都是“怪物”。

除了两个小男孩这一性少数群体,在是枝裕和这部电影里,生活中处处都充满了别人口中的“怪物”。

一、孩子在主线剧情,也就是电影后半段孩子自己视角中的故事,麦野和星川应该是早早就发现了自己的性取向,但两个人苦于社会舆论,同学之间的霸凌而不知所措,因此只能怀疑自己的脑子是不是被谁替换成了猪脑子,为什么自己跟被人不一样。

麦野和星川,一个没有爸爸,一个没有妈妈,他们能够理解彼此的孤独和单纯,但理解不了为什么这种感情进一步发展下去,就会变成一种危险的东西。

星川的性觉醒应该要早于麦野,他的爸爸应该也发现了,麦野去找星川时,骗麦野说星川在老家有一个很喜欢的女孩子是一个很明显的标志。

可以推测,星川的爸爸还告诉星川,男生喜欢上男生是一种病,并且以星川思念的妈妈作为要挟条件,告诉他,只有把病治好了,妈妈才会回来。

电影中,星川应该也是相信这一套解释的,所以他才会说自己有个猪脑子,还说爸爸很好,一直给他治病。

年幼的孩子不知道怎么处理自然萌生的感情,也不知道如何处理从学校到家庭都随处可见的身体以及思想上的霸凌,因此把矛头对准了自己,同时隐瞒别人,这是前半段所有人都感觉到怪异,但却不清楚问题出在哪里原因。

二、麦野妈妈让我们把视角拉回前半段,第一段是妈妈的视角,看了电影,我们会发现,虽然没有察觉儿子的性取向问题,但麦野妈妈在其他方面已经可以称作是一位很好的妈妈。

在面对儿子一系列怪异举动的时候,她没有直接寻根究底,而是小心翼翼用最微妙的方式想让儿子说说心里话,比如她会借给亡父过生日的机会想让麦野和爸爸说说最近近况,但这种压抑的担忧在儿子跳车之后终于忍不住了,麦野妈妈质问麦野,是谁在学校欺负你。

得知和保利老师有关,她凭一己之力和校方沟通,在得不到明确解决的方法和真诚的道歉之后,麦野妈妈决定诉诸法律,请律师起诉学校。

麦野妈妈在呵护保护儿子这件事上无疑是一位合格的好妈妈,她打工赚钱供儿子上学,也会经常和儿子纪念亡夫,给儿子还原一个具体的父亲形象。

如果只看电影前半段,我们会以为这是一个原本可以拥有幸福,但意外失去了男主人的三口之家。

然而在电影后半段,麦野亲自说出了爸爸其实是在和出轨对象的旅行途中去世的,出轨对于一个家庭的打击是巨大的,但死亡的降临使得怨恨没有机会持续发酵,不知道是出于对儿子的保护还是发自真心,麦野妈妈在电影中好像已经不怨恨麦野爸爸了。

麦野年纪不大,但已经完全能理解这些事,所以他会对妈妈说出自己做了一个梦,梦里爸爸让他告诉妈妈,我爱你。

我爱你,不仅是麦野对妈妈的感情,也是麦野认为爸爸应该给与妈妈的感情,麦野用自己的方式保护着妈妈。

对于麦野妈妈早织女士来说,怪物是谁呢?

是麦野爸爸吗?

还是那个曾经在破碎的婚姻中苦苦支撑的的自己呢?

在电影一开始,有一个很小的细节,麦野去上学,妈妈早织提醒他要走在人行道里,不要走出白线,麦野说:“知道了,这些都是小时候的老生常谈了”,妈妈望着儿子远去的背影,说“你现在也没长大”。

在妈妈的视角中,儿子好像就定格在了小时候,他是无性别的孩子,而不是一个正在成长的男性,所以麦野多半是没有从妈妈这里接受过严肃性教育的,对于早织女士来说,丈夫出轨的经历是否影响着她对于性的看法呢?

是否令她觉得成熟的带有性欲的男生是一种怪物呢?

在传统的东亚家庭养育模式中,摒除令人尴尬,兴许还令人恐惧伤痛的性,对其讳莫如深,无疑是一个保守安全的选择,早织一直是麦野妈妈,而麦野却并不一直是那个刚失去父亲的脆弱孩子,他在不断长大。

三、保利老师接着我们说电影前半段另一个重要的主角——老师保利,如果说麦野不可能在妈妈那里接受到严肃系统的性教育,那么在保利老师这里也不太可能。

保利老师在体育课上会对疲惫泄气的男生说“真不像个男孩子”,细微的语言偏见深入到生活中的各个角落,我们当然做不到如此敏感地抵抗一切惯用语,但保利老师的行为不小心对星川造成了伤害。

保利老师本人很可能也是别人眼中的“怪物”,有着不被别人理解的怪异。

保利老师来自单亲家庭,所以在女朋友说单亲家庭的妈妈大多特别精明时,他会很严肃纠正她不应该用这个词,穿った見方(うがった見方)在日语中本来用于形容用敏锐的眼光看事物,力求抓住事物的本质,很多日本人都会把这个词用错,保利老师的女朋友也是,她认为麦野的妈妈过于精明、过于敏感,对孩子的保护过了头。

而遭受了麦野妈妈强烈谴责的保利老师在听到女朋友的评价时,首先是纠正了她,单亲妈妈并不都是那么过分敏感和小心翼翼,其次纠正了精明其实是一个褒义词,而不是贬义词。

可以看出来保利老师是个很认真也很公允的人,即使自己有委屈和不公,也会站在比较客观的角度看待问题。

但就是这样一位认真且公允的老师,却被校方利用,学校得知保利老师的班上可能有霸凌事件发生的时候,第一时间想的不是调查清楚事件,而是非常傲慢地以一种和稀泥和做表面功夫的方式来息事宁人。

保利老师也不得不在校方歪曲事实的道德绑架之下咬牙配合,保利老师怀疑过学校的做法吗?

我想他内心肯定是承受了很大的矛盾和重压,但正如两个孩子只会怀疑自己那样,保利老师太弱小了,无法怀疑和对抗学校这尊“怪物”,所以只能改变自己。

保利老师的女朋友是一名酒吧女招待,一位老师和陪酒女谈恋爱,这在日本是很不受待见的事,学生遇到保利老师和女招待约会,会嘲笑老师“真恶心”,保利老师八卦的同事对此也流露出嘲笑和不屑。

反观保利老师,他没有觉得他的女朋友有任何问题,和她求婚,女朋友埋怨,求婚应该在一个夜景很漂亮的地方提出来,保利老师反驳说“每个人都说它很漂亮,但那些美丽不过只是灯泡而已”,相比于形式,保利老师更肯定一个人、一件事的内在品质,所以如果套用保利老师的话,“每个人都说喜欢上女招待是怪物,那只是因为别人不了解他女朋友其实是个好人。

”女招待到底是不是好人无法判断,在电影里和保利老师的感情好像也没有保利老师自己认为的那么好,在惹上舆论新闻后,女招待还抛弃了保利老师。

不管女朋友如何,保利老师一直在强调自己是健康的,自己虽然出身单亲家庭,但自己无论是对待学生还是感情都很“健康”。

保利老师强调“健康”,但一个真正健康的人是不会强调自己健康的,保利老师或许也是从小就受尽非议,在单亲家庭和心理问题上比较敏感,才会一直强调自己一直“健康”吧。

谁是怪物?

《怪物》这部电影没有怒气冲冲地声讨谁,两个被性取向困扰的孩子是别人眼中的怪物,出轨的父亲是家人眼中的怪物,女招待是小孩子眼里的怪物,喜欢上女招待的保利老师也是怪物,电影里的怪物随处可见。

校长不小心撞死了自己的孙女却让丈夫顶罪,但这一舆论也可能是热衷八卦的女同事杜撰的;在面对有性取向困扰的孩子时,保利老师无心的一句批评刺痛了星川;孩子们嘲笑女招待时,保利老师没有站出来解释说“老师的女朋友其实是一个很好的人”;麦野妈妈虽然在生活上无微不至,但却在性教育这个方面有所缺失。

电影里的所有人无时无刻都在犯着“无心之过”,但同时又都是受害者,是别人眼里的“怪物”,或者“怪物”的家人。

是枝裕和的电影总是能从小事发散出一些抽象的概念,《怪物》这部作品也是,我想,《怪物》这部电影的主角不是怪物,而是正常。

麦野在吹号的情节中告诉校长,我喜欢上一个人,但别人都说喜欢他会让我永远都不快乐,田中裕子扮演的校长开导麦野:“如果只有一部分人能拥有的,那就不是幸福。

幸福是任何人都可以拥有的。

”这让我想起《比海更深》里,在一个下着大雨的夜晚,良多的母亲对良多说:“幸福这东西,如果不放弃些什么,就无法得到它。

”在《怪物》里,幸福不应该违背人性,不应该只由一部分人定义,在《比海更深》里,幸福是不要沉湎于过去,要向前走。

是枝裕和总是用这种“非”来回答“是”,他好像在告诉我们,如果找不到生活中确定的“是”,就去体会什么“不是”。

在《如父如子》里,是枝裕和说,有血缘关系的不一定是父子,有养育之情的才是父子;在《小偷家族》里,五个没有血缘关系,也没有生存能力的人却组成了最有爱的家庭;《怪物》也是,那些看似正常的观念其实不是正常,被称作“怪物”的反而是这个世界上最纯真的人。

我们无法消灭生活中所有的怪物,甚至有时候,我们自己也是怪物的一部分,然而自诩为“正常”的,有可能是带着傲慢和偏见,会伤人的,更可怕的怪物。

在影片的最后,名为“正常”的神山崩塌,山洪在每个人心中泥沙俱下,大家打开那辆脱轨列车的窗户,才发现,原来,里面是游乐园呀。

 9 ) 《怪物》的影像伦理

已经没有必要引用罗兰·巴特在《神话学》中的符号学实例分析或《明室》中对于色情摄影的定义来佐证《怪物》这一影片的色情影像身份:这部以“人人都不是怪物,但人人又都促成了两个被指认为怪物的无辜未成年之死”为主题的、披着社会问题片外衣的电影,最大的问题并不在于其(据豆瓣短评指出的)引起争议的所谓“消费LGBTQ群体”——拍未成年探索自身性取向当然完全可以,问题是创作者以一种什么样的方式呈现了这一议题。

在影片转换到两个未成年主角的视角不久后(大约是二人第一次进入废弃公交的时候)我曾和一起看电影的对象开玩笑“你要是不告诉我这是俩小学小孩儿我以为拍的BL呢”,而之后的剧情也确实证实了我的猜想——但并非通过主角之一的麦野凑向女校长坦白“我不太确定,但我好像有喜欢的人了”这个明确点题的桥段,而是通过在这之前的二人在废弃公交上拥抱的所谓名场面得以确认:换句话说,麦野凑的这句点题台词有或没有对于二人关系的定性其实是无关紧要的(或者说这句台词存在的意义其实只在于点出主角的同性恋身份,从而引出电影“关爱性少数群体”这第二个大的主题,这点后文还会详述),上述相拥名场面,再加上前面铺垫的摸头发等桥段,它们作为内容本身、以及它们被导演呈现出来的方式,才真正决定了这部电影的性质:一部照搬成人色情片的话语体系的未成年色情片,一部针对未成年演员的纯粹的剥削电影。

让我们直接从这个公交名场面开始看起:在星川赖说出自己马上要退学回家跟奶奶住后,麦野凑笑着说“你被你爸爸抛弃了呢”(这里的后面半句字幕翻译感觉有点问题,但具体是什么我听了好几遍没听清……);而在星川回应“说得没错”后,凑突然急切地向对方辩解“不是的,我是开玩笑故意这么说的”,同时一边说一边从刚才跪在地上的姿势转换为了起身迅速逼近半躺在长椅上的星川,在已经整个把星川的身子压迫、围拢在自己的身体下后,才放下屁股坐到了椅子上。

在此,这个压迫性的姿态是不得不令人怀疑的:它当然并不符合常理,焦急自证清白的麦野凑也许会选择直接蹲在地上抓住星川垂下长椅的手或脚,也或许会选择站起身背对观众抓住星川的肩膀,或者也有可能是一条腿搭在长椅上支撑身体、然后如片中一样半侧身面向观众抓住星川——因为角色现在的状态是精神高度紧张,而人处于这种状态时肌肉也必然是紧绷的,换句话说,他几乎不可能还能够分神给屁股坐到椅子上(而且是正好地、恰当地、完全没有任何摸索动作地坐上去)。

再联想到这两个动作发生的先后顺序,以及这个姿态完成后镜头在其上停留整整十秒的定格意味,其中的人为之意便昭然若揭:在此,正像那些典型的成人向BL作品一样,这个一定要在二人之间塑造出一种高下对比(力量上的、气势上的或其它方面的)的姿态——正如同这两个小演员在选角和人物塑造上体现出的差异:一个高一个矮(虽然二人明明是同级生),一个叛逆卷毛一个乖小孩西瓜头,一个阴郁一个活泼,一个(疑似)白切黑一个黑切白——当然是为了、也仅仅只是为了分攻受;而这种依靠如此明晰的外在的、符号化的特征区分所谓攻受双方,无疑属于已经高度商业化的BL作品默认的表达惯例。

至于为什么需要这种攻受之分,那当然是为了满足作为消费主体的顺直人群的色情想象之需要(正如大家经常会调侃的,目前市面上主流的BL作品实质都是套皮的异性恋)。

但创作者们又并不敢于呈现真正意义上的“Boys’Love”(正如这个词的本义一般,又或者如对象调侃的一样,“他们敢于拍其中一个男孩对着另一个自慰吗”),于是我们可以看到在片子的第三部分里两个小男孩的对手戏到处都是“擦边球”(字面意义上的):上述名场面中麦野凑与星川赖的脸贴近到呼吸交缠的距离,而就算跳出BL向作品这个框架,我们作为观众也应当能立即反应过来这在影视作品的表达惯例里预示着接吻——但创作者又不敢真的令两个小学生接吻,他们畏惧来自普通观众的压力,他们想获得最大面向的评论认同。

于是我们看到接下来凑揪住并揉弄了星川的右肩衣袖(饰演麦野凑的黑川想矢完美地表演出了这个动作中的暧昧味道),并不难想象如果两个角色的年龄设定再稍大一些,这个揉弄的动作的承受对象就会变成星川的脸颊(正如前文提到的星川摸凑头发的桥段,为什么摸的只是头发而不是更具有性暗示意味的部位比如脸颊或脖子,也可以想见是出于类似的原因);而在这之后,星川倾身抱住了凑并低声呼唤他的名字,凑则被抱得起了生理反应,惊恐地推开了星川——在此,一个原本为接吻预设的距离被置换为拥抱其实是刻意到滑稽的,而为了掩盖这种不自然的刻意,创作者给出了看似更为惊世骇俗的走向即凑因为星川而勃起了[1],也用这一内容为后面凑点题性的表明身份的台词作铺垫。

但为什么说这种激进性是表面的呢?

因为这勃起最终完全没有通过镜头被展示出来(在凑从椅子上站起来准备走开前,导演甚至没有令镜头稍稍下移至哪怕一瞬能拍到他的下半身),也没有以一种比“没关系,我有时候也会这样”更清晰可辨的状态出现在台词里。

它就好像影像化的童话故事的结尾,公主拉上窗帘,然后银幕变黑,出现“从此王子和公主幸福快乐地生活在了一起”的字幕,于是观众就可以心安理得地走出影院了——观众并不真的想知道王子和公主后来的生活如何了,只要得到这句安慰剂一般的“幸福快乐地生活在了一起”也就满足了;同理,真的拍出麦野凑之勃起只会让观众受到惊吓,而当这事实被有如美女犹抱琵琶半遮面般地端到观众面前时,观众那点审美距离就好似被这遮遮掩掩给建立起来了,于是便可以心安理得地感叹二人之情多么感人,甚至为其洒下一把同情的热泪了。

而更为一石二鸟的是,同样因这一公开的性表达,观众也就可以有所依傍地将二人视作其色情幻想的对象了:如果说在这一整场戏的前述部分创作者还在小心翼翼地寻找偷偷摸摸的色情化和光明正大的关爱性少数群体之间的平衡的话,那么这段“勃起戏”可以说使这天平完美地达到了持久的稳定——对未成年性少数群体性觉醒和性欲的关注(好多buff……)这安全的越界获得知识分子首肯,而对二人之间性的可能性的点明收获普通观众的遐想和推介。

但正是在同一场景中饰演麦野凑的黑川想矢和饰演星川赖的柊木阳太表演上的区别令这个看似完美的画面产生了裂缝:如果观众看得更仔细一些,就会发现在上述这场戏中,镜头一直是追随着麦野凑走的,这导致在这整场戏中我们都不大看得清星川赖的神情变化,尤其到星川拥抱凑的部分及之后,前者已经变成了完全背对观众,即使在经历被凑重重推开这样无情的对待后,我们仍然未能得到机会目睹此时的星川对其遭遇的重大背叛究竟作何反应——在此甚至已不必再引用那更多的日常性情节中镜头对于星川关注的缺失:除了在麦野凑母亲上门拜访并询问其是否在学校受了欺负时露出了畏惧的目光(而在那个场景中,甚至将其解读为对不懈追问的麦野母亲本身的畏惧还显得更合理一些),在其它任何场景中,我们能看到的星川几乎都保持着灿烂的笑容(而那因被父亲施以暴力发出的尖叫则被隔绝在了门后)。

在那个被二人的老师撞见的厕所霸凌事件里,我们真的无法理解,为什么星川从被反锁在厕所里到被老师解开障碍开门救出的全过程里,从声音到表情没有一丝慌乱。

如果说麦野凑起码有明晰的人物形象,哪怕这种形象是刻意和僵硬的,那么星川则是一个完全的虚影,唯有脸上那张永远微笑着的假面还称得上真实——而将上述公交这一情节再和前文提到的摸头发这一同样标志二人之间关系进展的关键性情节一起比较分析,其实便不难得出结论:这同样仅仅是一种出于功能性需求的考量。

在所有的情节中,尤其是在那些麦野凑和星川赖的对手戏部分里,镜头对星川的故意避开仅仅只是因为饰演星川的柊木阳太实在太小[2],因而根本难以承担对故事和角色的大部分理解,更遑论和对手演员的亲密戏。

在标志二人关系走向朋友以上的摸头发桥段里,身处同一间音乐教室的二人本来正在聊闲天,由于麦野凑的问题“你的脑子真的是猪脑吗”,一直在旁边好奇地左摸右看的星川走过来向蹲在地上的他俯下身,像刚才尝试拍打手鼓一样摸起了凑的头发;而接下来,为了传达出这个动作的暧昧性,导演把镜头切给了蹲在地上的凑握紧的双手,以显示这一动作带给后者内心的震动——正是这一刻意的镜头显示出了将两个角色之关系定义为爱情的纯粹人为性质:它需要依靠增加两个小演员中那个年龄更大、更容易被观众视为相对成熟者因而自然地承担起性早熟者一角的黑川想矢那些解释性的镜头以说明这一关系的性质——不管是紧握的双手、还是震悚着推开和他拥抱的星川,而无法按导演所想演绎出这恋爱关系的星川,其神态和动作则被导演抛弃了,故而在上述公交场面中、在对星川如此重要的情节中,其面孔对观众却是缺位的。

但就在这样的重重伪饰之中,前述饰演星川的柊木阳太这个抚摸头发的动作中所透出的那种无法被影像之密网驯服的、属于儿童的天真好奇的神色,恰证明了整个影像的虚伪性:它表明了两个小演员所扮演的是有着小孩外表的大人,不管是毫无赘余的动作、过分成熟的语态和语言,还是甚至早于青春期的性体验,都不属于他们本身,而是大人臆想的产物;但只需这逸出影像的真实的儿童的一刻,只需这一刻以揭示二人的扮演中的假面性质,这虚假的“现实主义”的荒诞就昭然若揭。

而影像的虚假甚至不是这一影片最严重的问题——如果说影像本身对两个小演员已经是无法否认的剥削,那么在电影拍摄之外的宣发环节,这种剥削甚至来得比电影里还要直接和深入:只需要关键字“怪物+是枝裕和”随便搜索,我们就能毫不费力找到如下宣传花絮,两个小演员互相以手在对方脸上比心、黑川被记者问如何看待喜欢同性这回事、柊木靠在黑川肩上(甚至连这谁靠在谁肩上都遵循前述那种对攻受的刻板想象)……而毫不意外地,与这些内容同步出现的则是针对两个角色以及角色外演员的CP向混剪视频,标题还都是你在成人BL作品混剪里常常能看到的那种——经常看到微博广场或者豆瓣娱乐小组指斥XX明星和XX明星卖腐,而看到这些内容我才真的想说,这才是卖腐,不然我不知道什么才算;而这样的局面,正如前文所述,是电影亲手引导造成的。

也许有人会质疑:你怎么知道小演员一定是被诱骗的甚至被逼迫的?

也许他们就是很早熟、早熟到甚至已经完全理解并认同他们正在说的和做的了。

是的,我丝毫不否认完全有这种可能,尤其是在网络这么发达的时代,这些新世代又都是从小玩着手机长大的;何况他们还是演员,从小就比同龄人更多地与大人的世界打交道。

但我想强调的是在这扮演中仍然有一些内容是他们现在无法获知的或者说无法亲历的:正如有的豆瓣短评指出的,两个小演员甚至可能还没进入青春期,连性征都还未曾发育,更遑论在这之上的生理反应、和性对象的亲密接触以及性行为,而如没有对这些内容的亲历,哪怕他们可以通过网络模糊地知晓他们正在扮演的内容的是怎么一回事,他们也没办法真正意识到这样的扮演对他们来说到底意味着什么——像那些电影二创所展示的一样,他们能完全理解影片那些色情化的镜头会衍生出观众对他们什么样的想象吗?

而他们自己能担保、或者我们哪个观众又能替他们担保这部影片是他们完全了解了可能的后果后自行选择承担的结果吗?

他们能保证他们未来不会像影片中所展现的那样,因为自己在这部影片中的出演以及影像之外的相关言论被同学霸凌、被同事指点、被亲戚朋友当成玩笑的谈资吗?

而到那时他们又能保证他们不会后悔今天的选择吗?

我能心安理得地看成人演员出演的色情作品,是因为我知道他们已经是能独立做出选择和判断的、心理达到成熟的大人了,或者哪怕他们的选择不完全是出自个人意志,至少也能保证他们收获到了他们应得的那份名或利,而这两个小孩能得到什么?

他们的名要让给导演和编剧,而利要让给监护人。

如果说这所谓的关爱LGBTQ群体的片子能拿戛纳酷儿棕榈奖,那么我想问,儿童难道便不是少数群体的一员?

为什么放着眼前实实在在的儿童演员不去关注,而要为那屏幕对面并不知是否真正存在的所谓“被这一影片治愈的LGBTQ群体”而颁出此奖(这一概念简直和被影像催眠的观众一样空洞)?

而如果影像的完成可以以剥削演员尤其是未成年演员为代价,那我真的不知道行业的、以及影像自身的未来将走向何方。

[1] 我询问过身边的男性小学的时候能不能勃起,得到的回答是不太确定、没有明确的印象了——听起来更像是不能,但其实也没所谓,在这里就算作两位主角较为不同寻常地可以好了。

[2] 可以查到柊木阳太在影片上映时才12岁,也就是说拍摄这部片子时只会更小。

 10 ) 《怪物》,合作失败

自我的挫败与昭示作者:彭若愚台湾清华大学文学博士在读,影视文学研究者近年来逐渐走上国际化制作道路的日本导演是枝裕和,其新作《怪物》是继《小偷家族》之后,时隔五年重新回归本土叙事的一部电影。

相较曾问鼎戛纳、获颁金棕榈的《小偷家族》,同样入围戛纳的《怪物》虽未有如前者般一举夺魁,助力导演迈入“双金棕榈俱乐部”,但也分别斩获了最佳编剧与酷儿金棕榈两座奖项。

是枝裕和在戛纳本片的制作班底可谓星光熠熠,除却蜚声国际的导演是枝裕和外,担任编剧的坂元裕二与负责配乐的坂本龙一亦均是才望高雅、声名显赫的创作者。

尤其是与坂元裕二的合作,更是是枝裕和自其首部剧情长片《幻之光》后,头一次放弃“编导合一”的创作方式,没有亲身参与到剧本工作之中,转而将叙说故事的主要权力让渡给了职业编剧。

这也使得影片以一种多视点的环状叙事,呈现出在是枝裕和过往作品里鲜见的戏剧张力。

但此种叙事结构在为电影带来相对精巧的故事构作与富于悬念的情节设定之余,也不免令观者心生疑虑。

因为在本片中,膨胀起来的戏剧性非但没有完成对日常的“复归”,反而抽干了可供品咂的余味。

是枝裕和在戏剧冲突与日常情境之间显得难以取舍,最终讨巧地选择将任务移交给沉静轻灵、舒缓悠扬的配乐。

而其间映射出的,不仅止于导演个人的创作方式与艺术理念,亦是几位风格鲜明的主创在合作过程中自我意识的隐显。

《怪物》剧照1戏剧与日常对是枝裕和而言,戏剧与日常或许本不该是一组对照乃至对立的关系。

毕竟他曾提出“日常生活细枝末节的叠加,就是戏剧性”的见解,多年来持续深耕家庭题材的影片创作,尝试于人生琐碎处窥见永恒微光。

但他似乎也从未放弃过在故事设定与情节设计上更富戏剧张力的类型化创作,无论是其早期的《距离》、《花之武者》、《空气人偶》,还是近年来的《第三度嫌疑人》、《小偷家族》、《掮客》等作品,是枝裕和一直在贯彻既有风格的同时,不断试图拓宽类型题材与社群边界。

特别是最近几年,随着制作规模的升级,是枝裕和在影片叙事上逐渐由倚重生活化的内在戏剧性朝向偏重“秘密与谎言”式的情节反转发展 。

开始更多着眼在外部环境与势力对内部关系结构所造成的影响,而非内部矛盾是如何在日常中一点点沉积与消解的。

《怪物》剧照故此,他的作品也呈露出愈来愈多“非常状态日常化”的表征。

譬如他关于“偶合家庭”的两部影片《小偷家族》与《掮客》,尽管里面的角色大多是无业或非法职业的工作者,且时常游移于道德与法律的灰色地带,但导演仍然选择通过呈现他们较为日常的生活状态与人情关系,顺势牵引出他们的前史与隐秘,进而探讨这个临时家庭中的情感羁绊。

及至《怪物》,是枝裕和却是一反常态,在影片中营造出了一种“日常情境的非常化”。

例如本片的开场,麦野凑与妈妈早织在阳台吃着棒冰,意态悠闲,但远望着的,则是十万火急的火灾现场。

尔后这类日常与非常交织的场景也接连不断在影片中出现,几乎贯穿全片:在车上母子交谈之际,听着母亲“温馨话语”的儿子麦野凑突然打开车门纵身一跃;校长探视被关押的丈夫时,与其一同追忆被“自己”意外倒车压死的孙女,一面折着纸船一面感叹孙女有关“点心小偷”的可爱话语;麦野凑与星川依里在废弃的车厢如好伙伴般热络玩闹时,麦野凑突然一把推开了“过分亲密”的星川。

《怪物》剧照这类叙事情境无疑与是枝裕和过往的电影大相径庭,究其根本,则可以归结为多视点的叙事结构所致。

纵观是枝裕和之前的作品,温润细腻的日常细节会随着顺叙发展的情节进程一点一滴,如涓涓溪流般得以攒聚,终归大海作波涛。

但在《怪物》中,细节是断裂而非积蓄,是呼应而非贯通,是拼接而非绵连的。

或许是为了呈现每个人物视域上的主观和局限,角色各自的叙述视野都存在一定的不足与缺失,影片场景之间跳切的断裂感因之十分明显。

这也使得生活的营造被迫让位给氛围的渲染,情境的合理需要仰赖叙事的补完,枝枝节节确实彼此联结,可在叙事的闭环达成以前,戏剧化的“奇观”还是俨然凌驾于日常生活的叙述,秘密与谎言的显豁和知解则彻底湮没了细枝末节的堆叠。

《怪物》剧照而向来擅于把握日常情境与戏剧冲突之间微妙关系的是枝裕和,却不意在本片有所失衡的原因,显然同他及编剧坂元裕二之间的合作密切相关。

2博弈与共谋作为日本颇负盛名的金牌编剧,坂元裕二同是枝裕和一编一导的强强联合已然令人期待,而知名作曲家坂本龙一的加入则更令《怪物》在主创阵容上增色不少。

不过杰出的团队未必能直接对等于杰出的作品,还要看创作者们之间的默契如何,是否能水乳交融合作无间,将他们独到的优势风格切实地反映在影片之中。

《怪物》剧照这并不只是一场兼收并蓄的盛大共谋,亦是一次各显神通的无声博弈。

以结果视之,《怪物》似乎是属于坂元裕二的胜利,毕竟他以这部电影的剧作荣膺当届戛纳的最佳编剧,三段式结构的多视点叙事也在一定程度上丰富了影片的戏剧性与议题范围。

但这样的叙事设计并非出自他个人的独出机杼抑或独断专行,而是他与导演是枝裕和达成共同创作目的的一种重要手段。

是枝裕和曾表示:“在疫情过后,人们很难客观地看待世界,常常只从自己的角度思考。

社交媒体也存在同样的问题,往往见树不见林,人们彼此攻击、敌视,只肯接受自己愿意相信的东西,这种事情就真实地发生在我们身边。

我认为这是由于人们缺乏综观全局的自觉,对自身和世界的认知也缺乏历史视角。

人们不再从历史中学习,视野过于狭窄。

《怪物》工作照这番言论或许可以理解为《怪物》创作的一个出发点,由此也能更深地体认到影片中那些断断续续、影影绰绰的视线诱导是何用意。

它不仅仅旨在营造一种悬念感,借以维持一种强戏剧性的叙事结构,更意在展示与抨击人在认知上的主观与狭隘。

影片中的人物始终立足于个人的角度,单方面地宣判与之对立的“他者”是怪物。

同学是怪物,孩子是怪物,老师是怪物,家长也是怪物。

而在这场怪物们的宴会中,只有立场之别,没有对错之分,只有好恶之心,没有是非曲直。

并且为了更突出这种局限与无知,影片没有放任三个段落各表一枝,而是采用了多视点的共时性叙述。

在其中一个人物的故事发展进行时,其他人物的时间并没有就此停滞,同时也间接参与到了正在发生的人物事件中。

比如当麦野有意折返将星川从盥洗室内放出来时,却被恰好路过的保利老师误会为是他正在对星川实施霸凌。

而当瑛太饰演的保利老师因为被诬陷被冤枉而感到心灰意冷了无生趣时,远处则传来了麦野凑带有愧疚之情的铜管乐声。

《怪物》剧照人们经常会困囿在自己的主观感受与所谓眼见为实的真相之中,缺少全局的视野与理解的耐心,无从相信他人,亦难以坦诚地直面不如己意之事。

正是抱持着呈现与反思这种情况的创作目的,是枝裕和与坂元裕二在概念先行的前提下携手创设了这一精心构作的故事。

巧合的是,与是枝裕和近年来在电影创作上偏重“秘密与谎言”的情节反转相似,坂元裕二在电视剧的剧作方面同样相当仰赖这一设定,包括《四重奏》、《大豆田永久子与三名前夫》、《初恋的恶魔》,坂元也一直试图在呈现人物生活状态与输出金句的同时,通过钩沉人物不为人知的隐秘过往与多面性(例如《初恋的恶魔》中摘木星砂的双重人格)来呈示人物内心的深度,并进一步丰富可供探讨的议题面向。

《四重奏》剧照此外,对于类型题材在悬念把控上有欠火候的诟病也同时围绕在是枝裕和与坂元裕二的身上,因而依附一个强戏剧性的叙事结构固然是讨巧与无奈的折衷之选,却也是他们在现阶段进行类型化尝试所能得到的最优解。

除却合谋,双方也各自在风格上做出了一些让渡与配合。

为了匹配高节奏、强戏剧性的剧情设计,是枝裕和悬置了他一贯精细入微的日常呈现,仅以寥寥的笔墨做出细节上的补完(如麦野凑在父亲灵前询问的那句“为什么我要出生”)。

而坂元裕二受限于电影的叙事体量,也不得不凝缩了一些在电视剧篇幅中才得以展现的密集对白与百煮千熬方见滋味的幽微妙义。

尽管如此,预设主题、统一思路的创作方式依然使导演同编剧之间的合作呈露出一种尽己所能、各行其是的面貌,即使未有政出多门、各自为战的情况,终归也没能达到珠联璧合、相得益彰的理想状态。

他们的博弈仅仅停留于相互磨合彼此适应的阶段,共谋也只是体现在尽可能发挥各人优长的“明星战术”层面。

《怪物》剧照坂本龙一的配乐则进一步凸显了这种流于纸面的合作方式,从麦野凑的“反常”开始,杌陧不安山雨欲来的沉郁配乐引导观者步入叙事的迷局。

但在之后的两个段落内,叙事的承接与反转成为了一切的重心,配乐濒于消失。

直到顾头不顾尾的叙事在结尾处力有未逮时,音乐风格陡然一转,朝向空灵悠远的调性行进,以便为两个孩子的自由“桃源”作注,为影片开放式的结尾作结。

这在某种程度上令坂本龙一的配乐在大部分时间内更像是疏离于影片之外的独立主体,加之其音乐创作的主体性本就十分突出,便不再接近于“歌诗合为事而作”的电影配乐,倒像是看到某个特定情境后心有所感的即席吟咏。

如此就让原本期待在《怪物》中得以展现的编、导、乐三位一体变作了独立成章、偶有呼应的三足鼎立,使自我的显影盖过了集体的印记。

《怪物》剧照3挫败与昭示丹麦哲学家索伦·克尔凯郭尔尝言:“人生有三大绝望,不知有自我,不愿有自我,不能有自我。

”而在《怪物》中,比起那些不可言说的“秘密”,影片的旨归更像是锚定在“每个人都无法做到诚实面对”这一悲剧意涵上。

作为母亲的早织明知丈夫是在出轨时同情人一起意外丧生,却无法对早已得知真相的儿子麦野凑坦言相告,依然一心一意维护着丈夫作为父亲的形象,坚守着将儿子养育成人组建家庭的承诺。

《怪物》剧照作为父亲的星川不能面对妻子的出走和儿子星川依里的“特殊”,训斥孩子不是人,长着跟人不一样的猪脑,并屡屡动用家庭暴力试图加以“矫正”。

最后更不惜将他送走乃至遗弃。

作为老师的保利面对学生的谎言和不实的指控,屈从于学校为了大局考虑的压力和息事宁人的保守处置,让污名的连锁反应愈演愈烈,彻底颠覆了他原本正常的工作与生活。

《怪物》剧照作为奶奶的女校长难以面对不慎开车轧死孙女的事实与社会舆论对她职位的影响,选择让老伴顶罪入狱。

由此开始变得多以机械、冷漠、麻木的状态示人,甚至会阴暗的在超市内悄悄伸脚绊倒嬉戏玩闹的孩童。

而身为两个小主角之一的麦野凑无法诚实正视自己对同学星川依里所怀揣的特殊感情,便试图借由说谎和逃避隐瞒与抗拒这种情感。

故而他会在母亲表示要坚持到他日后能结婚生子,成立一个平凡、普通的家庭时骤然跳车,会援引母亲人身猪脑就不是人的说法激动指斥自己就是一个“怪物”,会因同学起哄嘲讽他与星川颇为“恩爱”而对星川大打出手,借以否定这种关系的存在。

《怪物》剧照另一个小主角星川依里则接受了自己的与众不同,不过是以罹患“疾病”的认知去面对他的这种特殊倾向。

他不应该喜欢花,不能够对男生产生亲密举止的冲动,对被叫做外星怪人,被讨厌,被边缘,被欺凌,被侮辱,要么默然承受,要么视若寻常。

而当他违逆父亲的教诲,选择对喜欢的人(麦野凑)保持诚实,否认谎言时,换来的即是酷烈的责打与台风天中的遗弃。

以这个角度而论,《怪物》实质是一部反映人自我层面困境的作品。

影片中的人物无不在面临建构自我、认知自我、认同自我的困难与障碍。

或是不知,或是不愿,或是不能,总之,在迎向自我的过程中,他们不断遭遇挫败,并因之造成了理解的局限与视野的窄化。

最终导致他们既无法真诚对己,亦难以坦诚待人。

《怪物》剧照“怪物”在此并非是某一具体的人和事的指代,而是自我偏狭观念的一种总体呈现。

因为有了怪物的观念,它才会在不为人知的阴翳中生长成型,进而异化了所有人,放逐掉人与人这个广阔社群之间相互理解的可能。

本片的立意诚然不错,但值得玩味的是,在影片中人始终挣扎于自我层面的认知煎熬时,背后却是创作者强烈的自我意识在有意引导与操弄着这一切。

坂元裕二在获奖后发给是枝裕和的信息里写道:“我只是为了一个孤独的人而写的,能够获得这么好的评价令我无比感动。

”然而如前文所述,《怪物》是建构在一个日常情境之中的“非常化”叙事,结合影片而论,坂元在创作目的上所指向的孤独者,并不是一个在常态环境下被孤立与边缘化的异类,而是在精心布局、有的放矢的预谋下,被膨胀的戏剧性所无限放大的异化人群。

《怪物》剧照换言之,这些事件与人物都并非依循求真笃实的艺术信念自然生成,而是依托于刻意求工的戏剧结构,塑造了一批功能明确、作用清晰,活跃于典型环境之中的典型形象。

主体性缺失的他们宛然是作者意志的代言人,负责承接与传递创作者希求表达的价值判断与批判思维。

最显著的莫过于影片中那些指向明确的价值宣导:“如果只有部分人能够得到,不能称之为幸福,只有所有人都能够得到,才叫做幸福。

”这与其说是人物的觉悟,毋宁说是编导主观意识的显影。

《怪物》剧照从这种层面而言,《怪物》一片本身就堪称是“怪物”,它缝合了出色的导演、编剧、演员、配乐,却没有促成其化学反应的愿景,只管集中与借重它的优势力量,向着精准规划的道路和已然知晓的目的地风驰电掣、狂飙突进。

更讽刺的是,作为一部呈现出人之自我困境与绝望心绪的电影,影片中人在“自我”方面所经受的挫败与不幸,却恰恰成为了本片的创作者在编导层面最大限度的自我昭示。

- FIN -

《怪物》短评

受不了一切刻意编织的东西

3分钟前
  • 火山边缘
  • 还行

老师没惹你们任何人

6分钟前
  • 疯饼干
  • 推荐

编剧和导演呈现的都是二元对立的怪物,卖弄叙事的技巧反而掩盖了应有的真诚,漏洞太多,过于刻意,近乎直白。以及最后用了aqua配乐真的很割裂,不要乱用一些影像信息情绪远远无法企及音乐水准的配乐。

10分钟前
  • TheAehT
  • 较差

我成了你作文列首里的暗语,你成了我额头卡片上的树懒。我成了家里供奉父权幽灵的祭品,你成了鱼缸里患了失鳔症的金鱼。我成了裹满枯叶的野猫,你成了浑身淤青的猪脑。大人在门上安了夹子,我们逃进避难的车厢,大人们擦不净天窗上的泥沙,我们吹不响幸福的圆号。我们只能成为怪物,我们成为不了自己。

13分钟前
  • 西楼尘
  • 还行

堀老师倒了什么血霉摊上你们了两个玩意

18分钟前
  • Hi海
  • 较差

不知道从什么时候起,我们都希望有一刻可以把世界或者自己毁掉。所以我以为,老师会跳楼,孩子会自尽,母亲丧子后西斯底里,校长是背后坏人,同学是冷眼的施暴者,我以后会是会掉之后在苦苦挽回又无可奈何的故事。被打脸的是,想把那一刻世界毁掉的我们,或许才是怪物。

21分钟前
  • 林莽撞
  • 力荐

没想到这么差。

25分钟前
  • Lies of Lies
  • 较差

泥窗上的雨点那个镜头真是绝了啊

27分钟前
  • 学名小雷
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电影的核心是同性倾向的孩子对于社会认同的担心。而电影有一半的篇幅,通过罗生门的手法制造悬念,这些悬念和电影的核心根本没有形成冲突的关系。例如的老师和母亲始终都并没有反对同性倾向。也就是说,大段的篇幅只是为了悬念而悬念,并不是为了电影的核心思想服务,看完之后感觉脱节。这样一想取这么一个唬人名字,可能也是制造悬念骗人来看的第一步。

32分钟前
  • Geralt
  • 较差

不如预期,三视角并线张力严重不足,国家队如果只是为了拿奖有失水准。田中裕子眼里的「无」最震撼。

37分钟前
  • T.V.Zoe ி
  • 还行

很无语,感觉拍了两只小动物而不是两个小男孩。感觉在看一个日式的糖水符号,让人很难关心任何人物。我一直都进不去这个故事,吹号那里想起的是“我会说大象话”,太戏剧了。最主要是两个小小孩之间的关系,介于爱和友谊之间的,在那个时候说是爱不具备说服力,并且要对抗前面建置的一个这么沉重的东西。关于正在建立自我认识的小朋友对爱的模糊感觉,也没有拍好。有一些可爱的,两个小孩一起玩的时候,他单脚跳起来他也跟着单脚跳,全片最自然的镜头也只有这里了,我喜欢你就会模仿你,玩你的游戏。后边那个太刻意了。擅长塑造日常真实的导演放弃了这些去玩形式,看来还需要更多练习。

42分钟前
  • 圈圈儿
  • 较差

简单故事复杂化,亦或是用叙事结构牺牲或隐藏核心逻辑缺失。刻意导向一个答案,又马上用更强的情绪去对冲它,非常不满对于角色生活状态的处理——每名角色如同只为了这个故事而存在,在封闭的情节之外几乎没有鲜活的生命。而高度戏剧化的处理让整个故事在某一方的特定视角下只存在单一的社会议题,完全不具备可供解读的多义性,提前给出一个答案然后只为了在最后否定它,每个角色都或多或少得到了来自外部的“谅解”,这同样是作为罗生门式叙事的失败。

46分钟前
  • 小植野
  • 较差

日本版亲密with a happier ending,三个不同的视角有意思但没必要

50分钟前
  • upstream
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高中的时候,有个男生跟我玩得很好,我们很亲近,有时他会向我“撒娇”,于是班上渐渐开始起哄我们是一对。我是直男,所以我很生气,有次我踢了他一脚,诘问他能不能不要这么恶心。后来整个高中三年他再也没有理过我,终于如我所愿没有人再谈论起我们,但我一直心怀愧疚,毕业时我终于鼓起勇气向他道歉,但他跟我说,他其实从来没有生我的气,他只是不想再让我感到难堪,所以努力克制住对我的喜欢,故意回避着我。十年之后,再想起他还是会泪眼朦胧,因为我知道,或许此生再难遇到一个人能像他那样爱我。可以叫出所有花朵名字的男生并不恶心,喜欢男孩子的男生也并不是怪物,但那是我很多很多年后才明白的道理。

55分钟前
  • 无条件积极关注
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喜欢不断抹掉车厢窗污渍的那个仰拍视角,如同黑夜的银河里散布着点点星光。但那层始终无法抹掉的黑色,也意味着人们的偏见造成的伤害,是无法消除的。影片可以拥有上帝视角,但现实是每个人只会困在有限的视角里,因为隔阂而成为彼此眼中的“怪物”。

57分钟前
  • 超酷的小七
  • 力荐

三天才看完,这就是属于那种比较闷且不好评价的电影

1小时前
  • 倪永孝
  • 还行

代入老师视角,真的觉得太惨了

1小时前
  • FrancesHa
  • 还行

是枝裕和的长镜头真的让人舒适,全片最喜欢妈妈和老师疯狂擦泥却擦不干净的镜头,而小演员轻轻一抹就能抹去。

1小时前
  • collapsar
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以为的校园霸凌社会议题,原来只是虚晃一枪。预告诈骗……只有异性恋受伤的世界达成……

1小时前
  • 丑橘
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影片分三段,各以安藤樱饰演的单身母亲、瑛太饰演的老师和男孩自己作为视角,讲一对男孩失踪始末,是枝裕和的叙事保持水准,让我始终好奇怪物究竟指代什么。我常用细雨来形容是枝裕和的短镜头,让他更善于编织绵密的情感,谁能想到他也拍了boy‘s love,德霍特《亲密》东亚姊妹篇(二者故事其实很不同)。但坂元裕二的编剧总是着迷于结构,情节一清二楚、一目了然,第三段依然没有逃脱出日本商业片的温情套路,单身家庭、校园霸凌等议题点到为止,不了了之。坂元裕二和是枝裕和显得并不调和。导演还是自己写剧本吧。2.5

1小时前
  • 南悠一
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